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リスクを負わない部外者発言が公共建築に与える弊害とその対応について

 このところ、大規模な公共建築物の建設がスムーズに進まない事態が多く見られる。たてものを建てることでごはんを食べている者としては、そういうことはできるだけ起こらないほうがいいと思っているのだけれど、現実にそういうことが起こってしまうのはどうしてなのか、どうすればそういうことが起こらないようになるのか。答えにまではたどり着けた実感がないのだけれど、考えた過程を残しておこうと思う。

建物はどのようにして正しく建てられるのか

 この話をどこから始めてどこで終わらせるのかは非常に難しいのだけれど、とりあえず、一般に、民間発注の建物が正しく建てられるとはどういうことによって成立するのかを、まずは 考えてみたい。

 ここで言う「正しい」とは、場面によっては所定の要求品質を満たしているとか、法律に合致しているとか、当事者間の契約に即しているとかいろいろなものが考えられるのだけれど、そのひとつひとつを考えるのは別の機会にして、ここでは方向性を示す「正しい」という言葉に置き換えることにする。

 建物は、豊洲市場のような巨大なものでなくとも膨大な数の部品や部材と、その組み合わせによって成り立っている。単純に考えれば、建物が正しく建てられるためには、そのひとつひとつの部品や部材と、それらの組み合わせ全ての「正しさ」を確認する作業を繰り返すことが確実である。しかし、そのようなことは、小屋のような小さなものであれば可能であるかもしれないけれど、ある程度の規模の建築物ではかんたんに破綻してしまう。そこには膨大なコスト、社会的なリソースが必要となり、リソースは常に不足している。

 したがって、建築物の「正しさ」を生み出すために、このようなしらみつぶしの手段は通常採用されていない。「正しさ」を確認する行為を検査と呼ぶことにすると、現実に建物を建てる場面においては、重要な部材については全数検査しましょうとか、そうでないものについては、全てのものからいくつかを抜き取って行う抜き取り検査でいいやとか、そういう効率的な方法によって「正しさ」を付与しようとする。

 しかし、効率的という言葉は、立場を変えてみると手抜きにも見える。どこからが効率的で、どこまでが手抜きであるか、その線引きに普遍性や客観性を求めることはなかなかちょっと難しい。そこで、立場の、利害関係の異なる複数の者が集まり、話し合うことになる。効率的と手抜きの境界はどこか。重要な部材とそうでないものはどれとどれか。そのような議論の積み重ね結果として、どのように建てれば正しく建てられたと言えるのかを、集まったもの同士で決め、建物を正しく建てていくことになる。

 そこには、普遍性や客観性はないんだけど、集まった者それぞれには納得がある。

トランプゲーム「ダウト」のプレイヤーたち

 建物を建てるという行為には、発注者、設計者、監理者、施工者といった、利害が完全には一致しない多くの主体が関わっている。それぞれの主体は、建物を正しく建てたいという方向性については一致しているものの、その他の多くの点では利害(それは単純に金銭的な利益や損失もあるけれど、社会的な信用も含まれる)が異なるがゆえに、お互いの行動を監視し、間違っている場合にはそれを修正させようとする。

 しかし、指摘された間違いの検証と修正には、時間と労力、コストがかかる。また、その誤りの指摘自体が間違いであった場合、時や金銭、あるいは信用を失ってしまう可能性がある。そのような点において、建築物に関わる各主体、プレイヤーのあり方は、トランプゲームの「ダウト」に近い。「ダウト」のコールが間違いであれば、その報い、ペナルティは、コールを発した者に対して課せられる。「ダウト」が正しければ、コールされた側がペナルティを負う。

 ペナルティのあり方はいろいろあると思うけど、まず信用が下がり、その結果として他のプレーヤーからの「検査」の頻度が増すなどすれば、利益として見込んでいたものをすり減らすことなんかが考えられる。

 本来、誰も「ダウト」を発することなく、それぞれの職分を全うした結果として建物が完成することが一番よくて、プレーヤーたちの利益は最大化される。しかし、「ダウト」の必要がない仕事をするには高い能力が必要になり、高い能力を持つプレーヤーをゲームに揃えるには、発注者が各プレーヤーに多くの報酬を支払わなくてはならない。

 このようにして、集められたプレーヤーたちは、ときどき「ダウト」を発しながら、ペナルティを負いつつ、応分の利益を得て、建物を完成 させる。発注者は、用意した資金に応じた質の建物を得る。発注者を「親」とした、閉じたゲームである。

部外者による「ダウト」

 ここで、仮に、建物を建てるというこのゲーム中に、差し出すものも取られるものもない部外者が、「ダウト」を連発したらどうなるか。
  
 正規のプレイヤーの誰かにその「ダウト」の検証が求められるならば、「ダウト」が正しいかどうかに関わらず、そこにもペナルティと呼ぶべきコストがかかる。そして、誤った「ダウト」であっても、そのコールを発したものは、部外者であるがゆえにペナルティを負わない。

 「ダウト」のコールはたまたま正しいこともあるかもしれないけれど、正規のプレーヤーたちの信用は下がる一方で上がらないので、それぞれの正規プレーヤーの利益を足したもの、全体の総量は減るだろう。部外者は、ペナルティを負うリスクがないので、何の根拠もなくとも「ダウト」を連発することができてしまう。これにより、正規プレーヤーたちは少しずつ、だが確実に利益をすり減らされていく。

 このように、部外者の「ダウト」は正規プレーヤーたちにはうれしくないものである。ゲームの「親」である発注者が、部外者の根拠のない「ダウト」に厳しい態度を示さない場合には、発注者以外の正規プレーヤーからの信用を失ってしまう可能性がそれなりにあるということになるだろう。

公共建築の発注者のあり方

 ここまで見てきたのは、民間事業者が発注者である、一般的な建築プロジェクトについてである。しかしながら、こと、発注者が公共機関である公共建築については、上で見た構図がぼやけ、崩れる傾向にある。

 その理由のひとつには、公共機関の「公共」という言葉によって、発注者の輪郭がおぼろげになることが理由に挙げられる。たとえば、地方自治体が発注者である工事では、その地方自治体に住む市民は、自分たちも納税しているわけだから、正規のプレーヤーとして「ダウト」を発する権利があるのではないかと考えてしまう。これにより、正規プレーヤーと部外者の境界が曖昧になる

 もうひとつの理由としては、公共機関による、部外者に対する「厳しい態度」の示し方がはっきりしないところにあると思われる。上場企業である民間デベロッパーであれば、適時開示ですぐさま「当社が発表したものではございません」と出してくるような内容の「ダウト」であっても、公共機関が押し黙るケースが多く見られるのはあまり良い傾向とは言えない。

 公共建築において、発注者である公共機関が発注者としての信用を失わないためには、発注者と部外者の線引きをはっきりさせ、部外者の発言に対して毅然とした態度をとることか必要である、ということである。なお、発注者は、その他の正規プレーヤーとの契約内容を把握し、予算管理の責任を負っている人、というカテゴリーにに限らなければ、その役割を果たすには不足名のではないかと思う。

 発注者としての業務遂行に必要な手続きが定められていないのであれば、早急に整備する必要があると思う。また、公共機関が発注者の役割を果たせない、あるいは果たす気がないのであれば、さっさとPPPやPFIにより、その役割を民間に委託してしまうのが正解であろう。

部外者への対処

 ここまで見てきたように、正規プレーヤーではない部外者の「ダウト」は、一面で、公共建築の発注者である公共機関の信用を失わせている。公共機関の信用が下がれば、今後、必要な公共建築、公共工事は、突然白紙撤回されたり責任者が更迭されたり、さまざまなリスクを回避するために高いお金でしか引き受けてもらえなくなるだろう。公共工事がスムーズに進まなくなれば、経済全体の停滞にもつながりかねない。それにより困るのは誰か。

 根本的には、公共建築工事の発注者である組織のトップにしっかりしたガバナンスをお願いするしかないのだけれど、一方で問題であるのが面白半分に「ダウト」を連発する、自称建築の専門家であるところの部外者である。

 本来、建築の専門家と呼べる人たちは、アカデミックな世界に専ら活躍の場を見出してきた人を除けば、過去に正規プレーヤーを経験し、現在どこかの正規プレーヤーであり、将来正規プレーヤーとなる可能性のある人である。自らが部外者となって、「ダウト」を乱発することが良い結果をもたらすかどうかは、その都度、冷静に判断されるだろう。

 そのような建築の専門家であれば、どうしても看過できない「ダウト」は、正規プレイヤーの耳に届く声の大きさで発すれば十分だと考えるのではなかろうか。正規プレイヤーがその主張に耳を貸す必要がないと判断するのであれば、それまでである。それでも大声で、正規プレーヤーとは関係のない方向に「ダウト」を連発し続けるような人たちを、建築の専門家と呼ぶかどうかは、これを読んでいる皆さんに判断を委ねたい。

 悲しいのは、建築プロジェクトというゲームではないものの、視聴者やスポンサーなどとともに、信用や金銭のかかったゲームの正規プレイヤーとしてふるまっていると私個人が思っていたテレビ局が、部外者の明後日の方向に向かった「ダウト」の拡声器の役割を果たしてしまっていることであるが、それはここでいっても仕方のないことだろう。

 かつて、公共工事の発注者は、民間工事と違って企業の倒産による不払いリスクなどもない「いいお客さん」であり、そのおかげで私たちの社会は、比較的リーズナブルに必要な構造物を手に入れてきた。高度経済成長期に作られた多くの構造物が更新の時期を迎えるいま、公共工事の発注者のこれまでの立ち位置を面白半分に壊してしまうことが誰の得になるのか考えて欲しいな、なんて思いました。