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新国立競技場をめぐる巷の意見に対する当ブログ主の所感

さっき、twitterに連投したのが読みにくいので、ほったらかしにしつつもまだ残っていたこのブログに一応まとめておく。筆者は建築を専門にしているが、設計者ではなく施工者であり、これはその立場からの意見であることをことわっておく。

建築の設計コンペには、大きく二つの方向性がある。ひとつは、はじめからコストまで厳密に検討された、実現可能性が高い案を求めるもの。もうひとつは、大きく目指すべきもの、コンセプトを求め、厳密な検討は長いプロジェクトの期間につめていくもの。多くのコンペで求め、求められるのは、その中間のどこかになるわけだが、どこにおくかは、発注者の意向を汲んだ上で、応募側、募集側の建築家どうしでの読みあいとなる。

今回の国立競技場のコンペでは、想定される竣工期日の7年前という時期、発注者の「国」という経済規模などなどを考えれば、募集側の建築家、応募側の建築家とも、後者(コンセプト側)に寄ったものと解釈するのは当然といえ、3年もの月日を浪費した現在においてその判断を責めるのは酷である。

さらにいえば、コンペの実施から現在まで、民主党から自民党への政権交代とそれに伴うアベノミクスの実施、日銀による大規模な金融緩和、東京オリンピックの開催決定など大きな経済イベントが続けざまに、かつ国立競技場の発注者である「国」の主導のもと起こっている。これにより、当時と現在における単純な比較が難しくなっており、特に一般的な指標である、「日本円」による比較は不可能といってよいレベルである。たとえば主軸通貨である米ドルを基準にしても、コンペ開催当時1ドル=78円程度に対して現在1ドル=122円であることには留意する必要がある。

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加えて、建設業界においては好調な不動産市場を背景に、資材、労務の不足・高騰が引き起こされつつあった。現状は元請(ゼネコン)側の選別受注により暴騰を回避しつつあるが、このような強含みの市況においては、早期の工事契約が建設費抑制に有効であるにもかかわらず、国は特に民間に発注者支援業務を要請することもなく、施工者が参加しない詳細設計業務を先行させたり、技術提案のみで施工業者を決めた上での随意契約へ持っていこうとするなど、建設費抑制に対する適切な対応が取れていない。これらについて、当然ながらコンペ当時の関係者に責任はない。

ザハ、安藤忠雄の両者をはじめとする当時のコンペ関係者は、閉塞感が漂っていた当時の日本、特に「コンクリートから人へ」を掲げた民主党政権下における建設・建築の関係者の鬱屈した気分を晴らすというその責を十分に果たしており、ここまで述べてきた論理的な部分のみならず、感情的にも彼らを咎めるようなことは、この世界でメシを食ってる人間として、できようはずもない。

巨大な二本のアーチは、観客席を雨から守るという機能的な役割だけでなく、これまで実現したことのない技術的なチャレンジ課題として適切なレベルにある。東京スカイツリーも同様な課題であったが、不況下における余剰リソースをもって当たることができた当時と違い、旺盛な民間需要を断ってまでのチャレンジということで、機会損失、リスクヘッジといった費用が上積みされたのは、先述のとおり選別受注を旨としている施工者として当然である。コンペ当時の1300億円という金額が、大まかに東京スカイツリー3本分、というとろこであると見積もると、私の感覚として(前述の通り、感覚でしか比較のしようがない)2520億という金額はそこから大きく離れてはいない。

建築をめぐるしごとは、理想を追い求めること、実現性を追うこと、その妥協点をさぐること、さまざまな要素から成り立っており、それぞれに非常に価値のある、やりがいのあるしごとだと私は思っている。

どんなプロジェクトでも、実現可能性からの距離は別として理想を語るところから始まり、徐々に実現可能なものへと変貌していき、建築物として実現する。その過程全体が建築であり、一部を取り出して特別視することにはくみしない。

ザハは非常に優れた理想の語り手である。アンビルドの女王なる呼び名は彼女にとって非常に不名誉なものであるが、その不名誉は彼女だけでなく、彼女のプロジェクトに関わった発注者、施工者、コンサルタント、PM、CM全てが等しくかぶるべきものであろう。

今回の国立競技場については、JSCならびに文部科学省不作為によるところが大きいと考えるが、彼らの不手際を横目に見ながら適切な指導ができなかった財務省国土交通省などの縦割り意識、ひいてはいまだにこれを改善できないでいる我々日本国民の不手際ということなんだろうさ。