建築家が建築家を評価することについて

前回、経済的評価軸には間違いが起りやすいということを指摘した。したがって、ここには、需要の大小とは別に、建築を評価する仕組みが必要だ。その仕組みとして最も有力なものとして、学術的評価軸という言葉を出した。

先の新国立競技場コンペでザハ・ハディド率いる設計事務所を選出した審査委員の委員長が同じ建築家である安藤忠雄であったように、建築家は建築家によって評価される。新建築などといった建築雑誌も、主要な読者は同業の建築家であるので、その志向に応える誌面作りとなる。建築家が建築家を評価する仕組み。これらは、建築家である先生が、建築家になりたい学生を評価するという、大学の設計製図の講義の延長線上にあるとも考えられるので、ここでは学術的評価軸と名付けてみたのである。

どんな職業でも、業績を、すなわち仕事そのものを評価するのは、基本的に同業者、小説家なら小説家、ピアニストならピアニストであることが一般的だ。だから、建築家の仕事を建築家が評価することは、別に何も悪くない。

ただ「建築家の仕事」の中身が、時代とともに変わっているとしたら、どうだろう。

構造設計、設備設計といった専門分化が進み、かつて建築家の仕事とされていたものは、意匠設計という、これらと並び立つひとつの設計部門に押し込められようとしている。現代の意匠設計者は、各分野の専門家と対話し、自らの創造性との調整、時には妥協といった工程を繰り返し、共同作業の成果として一つの建築の設計に至る。石やレンガという地域によって所与の材料を積んで壁をつくり、それに如何に窓を開け、光を取り込むか。そういった素朴で独断的な検討の積み重ねが、ひとつの建築全体の設計とほぼ同義であったかつてのヨーロッパにおける建築家像と、現代の意匠設計者では、仕事の内容が違うのは明らかだ。

建築への要求が、クライアントとの個人的な対話からだけではなく、市場という意思の集合体からも寄せられるようになったこと。これにより、意匠設計者が対話する相手が、クライアント個人だけではなく、マーケティングの専門家にも広がったことも、上に書いたことの一つの例である。

建築家の仕事が、建築設計全体から、その一部になっていったとしても、建築家が建築家の仕事を評価するということ自体の意味には、何の影響も与えない。ただ、建築家が建築家を評価するという行為を通して、その建築家が設計に関わった建築を評価しようというのであれば、建築家の仕事と建築そのものとの関わり方の変化による影響を免れない。建築家の仕事が、建築全体に及ばなくなるとすればそれは、建築に対する学術的評価の妥当性を落としてしまうのである。

もし、こういった変化から目をそらして、建築家による建築家の評価、それを通しての建築の評価を続けていけば、その評価による価値観、学術的評価軸を共有できる人の範囲がどんどん狭まり、ついには建築家と呼ばれる人たちだけの間しか共有できないものになってしまいかねない。

前回見たように、経済的評価を実現するためには、市場参加者に広く共有される価値観が必要であった。仮に建築家が高い報酬を求めるものではないとしても、同じ建築に対する学術的評価と経済的評価の差が開くということは、建築家同士の間での価値観が、それ以外の人たちの価値観から乖離していることを意味してしまう。

また、建築家の報酬が低ければ、建築家と呼ばれる人たちのグループの中への、優秀であっても経済的に余裕のない人材の受け入れを拒むことにもなりかねない。ひいては、学術的評価軸が、一部の経済的に恵まれた人しか入れないグループの中での価値観という、狭量な位置づけにもなりかねない。

反対に、学術的評価軸の中に、建築家同士だけでなく、建築に関わる全ての専門家、ステークホルダーの評価を取り入れることにより、経済的評価軸をも取り込んだ評価軸を形成し、良い建築には高い評価がつき、その建築は高く売れ、その建築に関わった人たちは高い報酬を得られるという、理想的な状況が生まれるのではないか。