新国立競技場で問題となるのは、巨大さよりもむしろ左右対称性なのではないかと思う件

新国立競技場については世間でいろいろ言われてて、お金がどうのこうのみたいな話がクローズアップされている割には、世の中最初の案からお金の面で同意が得られている設計なんてそうそうないことを知っている身としては、まあお好きにどうぞ的な感があって、ほほえましく観察していたわけですが。

本日に至っては、コンペ当時の審査員である内藤廣さんが、今さら言わなくても言いことを言っちゃったりして、もし私が週刊誌の記者だったら大変喜ばしいことだというコメントをここで書いちゃうくらいの状況なわけですが、週刊誌の記者ではない私がかなり興味を持っちゃったのは以下の文章であるわけでございますです。

10+1 web site|都市景観と巨大建築|テンプラスワン・ウェブサイト

「古代のピラミッドやローマのコロセウム、あるいは中世の大聖堂」と、わざわざ例を引いて、「超高層ビルを見慣れたわれわれにとっても、今なお十分な強度をもつ」ものを挙げているのに、どうして「巨大さ」の方に目が行ってしまうのか不可解であり、むしろ五十嵐さんはとぼけているんではないかとすら思うレベルなのではありますが、敢えて見出しでも書いたことをもう一度繰り返すと、いやそれ、左右対称だろ、と。

左右対称の建築というのは、モニュメンタルを通り越してもはや宗教的ですらある、ということを、私が学生のときの設計製図の講評で聞いて、それ以来ツイッターなどで何度も受け売りをさせてもらって特に反論などないところを見て、一抹の真実性があると勝手に思っているところからすると、ザハの新国立競技場案で特に問題だと思うのは、その左右対称性なんだと思うわけですよ。実際、五十嵐さんは上で挙げた記事において、宗教建築を論じておられるので、新書を読んでないので断言はできないのですが、そこんとろ気づいてんでしょ?と。

宗教建築がなぜそんなに左右対称なのかというと(あ、別に実例あげんの省略しますね。左右対称でない宗教建築のほうが、例挙げるの難しそうな感じしますし)、人が造りしモノ以外の自然界において、左右対称なものというのは、おおかたにおいて「動物」なのであって、自分より大きな「動物」に出会ってしまったら死を覚悟しなければならなかった我々の原始の頃のご先祖様の記憶が金玉に記憶されて残ってるんだとか、科学的であるようなないような仮説が立てられそうな気がするんですけど、まあそれはどうでもいいことですよ。

新国立競技場よりも幅のある建築物は稀にはあるだろうし(これに猛反発してる槇先生の幕張メッセも、全長としては似たようなもん)、背の高いものは超高層という形でザラにあるなかで、巨大さで反発するのは、どうも論拠に乏しいなぁと思っていたところであります。

そこへきて、巨大さにプラスして、左右対称性がくるとどうなるか。この、ザハ案の新国立競技場は、左右対称であるが故に、その指し示す方向性というのが、嫌が上にも強調されて、その指し示す方向にいる人たち、とりわけ住んでいる人たちにとっては、大変にいたたまれない気持ちになるのではないかという予想をしてしまうのです。

東京という都市は、たとえば京都(も、正確には左右対称ではないですが)のように対称性が薄くて、なんとなく山の手線的な、内堀、外堀的な、円環の理的なところで落ち着いている都市であって、そういうところを、丹下健三大先生は、左右対称ではないけどモニュメンタルで求心的な、巴型に代々木体育館をまとめていて、まどか☆マギカ的に見ても大変な大正解であったのに対して、ザハ案に感じる違和感というのは、「左右対称だ」という一点に尽きてしまうのではないかという、そういう危惧をいだいているわけでございます。

これで、ザハ案の対称軸が、御所の方向をしっかり向いていたりすると、それはそれで大変に気持ちの悪いことではあるのでそんな提案は全く支持しませんが、全然関係ない方向を向いているのもまた気持ちが悪いわけであって、それはこれまで「軸」を持たせないことで「丸く」「円く」「環く」おさまっていた東京という都市に、おかしな方向性を持たせてしまうのではないかなあ、と、まあ今日も楽しくお酒を飲みながら思った次第でございますので、僭越ながらこちらに表明させていただいたところでございます。以上。