ただし書きがつくる、技術と法律の幸せな未来

今朝、このまとめを見てもやっとしたので、日ごろの不満をぶちまけつつ書いてみたいと思う。

佐々木俊尚さんのツイートまとめ/「法律原理主義」みたいなイデオロギーが蔓延するニッポン/警察庁と国交省が激怒!「トヨタが首都高で自動運転を実演」の是非について。 - Togetter

佐々木さんの当初の問題意識はすごく真っ当なのに、その後のやり取りの中で本質的なところからどんどん遠くなっちゃってて、なんだかなぁと。

法律が自動運転システムという新しい技術の発展を妨げているとしたら、その点において、それはダメな法律だ。佐々木さんの怒りもよくわかる。だけど、ダメな法律ならば破っていい、という風に取れる佐々木さんのツイートには、ちょっと同意できない。破っていい法律と、破っちゃいけない法律を、個人の判断にゆだねるのは危険だと思う。「悪法もまた法なり」という言葉には、それなりの説得力があると思う。

ただ、今はそこは置いておいて、もともとの問題意識に立ち戻り、悪法を良法に変える方法ついて考えたい。そもそも、警察庁や国土交通省が怒る原因となった法律だけど、今ざっと道路交通法を見たところ、たぶんこれ。違ってたら、ごめんなさい。

(安全運転の義務)
第七十条  車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない。

「ハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し」と書いてあるのだから、少なくともハンドルから手を離しちゃいけないし、ブレーキに足を置けないのもダメ。

自動運転システムなんてものができなければ、これはある程度妥当な法律だと言えると思う。これまで何十年も問題があまりなかったというところからも、それは確かだ。ハンドルを握ること、という具体的な判断基準が示されることで、ハンドル手放しで運転している人を安全運転義務違反で捕まえることができる。しかし、ひとたび自動運転システムという技術のイノベーションが成ったとなると、これは途端にダメな法律になる。それはなぜか。

条文のタイトルに、「安全運転の義務」とあるように、ハンドルを握らせることは、この条文の本来の目的ではない。ハンドルという、「安全(運転)」という目的を果たすための手段でしかないはずのものを、具体的に名指しして、目的化してしまっていることが、こと技術革新に当たっては、妨げとなってしまうのである。

しかし、目的だけの法律、たとえば「安全運転をしなければならない」というような条文が望ましいとは、とてもいえない。たとえば、鼻歌をうたっているだけで「運転に集中していない!安全運転義務違反だ!」と言い出すおまわりさんもいるかもしれず、気が気でない。

条文の具体性を保ちつつ、かつ想定外の技術の発展を妨げないような法律作りというのが、この国が世界に立ち遅れないようにするためには必要であるという佐々木さんの意見には、完全同意である。そして、それを実現するのは、そんなに難しいことではない。「ただし書き」をつければよいのだ。たとえば、こんな感じである。

車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない。ただし、これと同等以上に安全を確保できると認められる方法による場合はこの限りではない。

実際、ぼくの仕事であるところの建築の施工に関係する法律にも、こんな感じの「ただし書き」が随所に見られるわけで、そのおかげで実現できている工法というのも、数多くあるのを知っている。ただ、それが意図的であるのかないのかわからないが、すべての法律にこういった「ただし書き」がついているわけではないのが現状であり、それによって、いろいろと実現できないことがありもどかしい思いをすることがある。

法律の意図するところを理解し、基準とするところを十分に超える性能を発揮する技術であれば、それを妨げることは誰の得にもならないことだ。そう考えると、すべての、技術に関係する法律には、この「ただし書き」がついていなければならないはずだ。

片っ端から「ただし書き」をつけていく作業は膨大な労力を要するだろうし、一見技術に関係するとは思えないような(上にあげた道交法の条文も、技術に関係すると、気づかない場合もあるだろう)ものが、技術に関係する可能性があり、かなりの知力を要する仕事でもあるのだと思う。

しかし、昔の常識で作られた法律によって、革新的な技術が葬り去られるほど空しいことはないわけであり、ひとつひとつ「ただし書き」をつけていくことが真の規制緩和になるのだと思うので、何とかしてくださいよろしくお願いします。