武雄市図書館に見るPPP/PFIのむずかしさ

タイトルにはこう書いてしまったものの、武雄市図書館と武雄市長にまつわるテキストはネット上に膨大にあふれていて、その全てに目を通しているわけではないし、今回書くことは基本的にぼくの頭の中でたぶんそうなんだろうな、と思っていることを文章にしただけの話であるので、誰かを非難しようとかいうものでないことは、最初に断っておく。

武雄市図書館のプロジェクトというのは、いわゆるハコモノ行政に対する批判、アンチテーゼとして企画されたものなんじゃないかと、ぼくは思っている。建設事業の経済果にばかり注目して、その成果物である建築物や土木構造物のうち、かなりの数のものが、あまり社会の役に立っていないではないかという批判。これは耳が痛い話だし、しかし耳を傾けなければいけないものだと思う。

これに対する施策はいろいろと提案されていて、その中のひとつがPFI(Private Finance Initiative)であり、それを含んでいるPPP(Public–private partnership)である。役人の頭だけに頼って、公共建築物をどのようなものにするか、どのように使っていくかを考えていくことには限界があり、ときに役に立たない成果物に至ることがある。だから、商売としてうまくやっている民間企業のノウハウや資金を有効活用していこうというものだ。

武雄市長は、このPPPの理念を、そのまま素直に受け取ったのだと思う。公共建築物として、学校を建てようと思ったら東進ハイスクールに、刑務所を建てようと思ったらALSOKに、図書館を建てようと思ったらTSUTAYAに、そのノウハウの提供を受ければ良いではないか、と。

だが、実態として、PFIを受注しているのはゼネコンばかり。ゼネコンは建設のノウハウはあるかもしれないが、教育のノウハウも、警備のノウハウも、本のレンタルのノウハウも、持ってはいないはずであり、PFIやPPPの理念とは食い違っているではないか。武雄市長でなくとも、そう思う人は多いはずであり、「大人の事情」だとか「陰謀」だとか言いだす人がいてもおかしくない。少し立ち止まって考えて見れば、単に、学校や刑務所や図書館を建てるというプロジェクトの中で、最も金額が大きく、リスクも大きいところが建設事業部分であるがゆえに、ゼネコン以外の民間企業にはそのコントロールが難しいだけの話だとわかりそうなものだが。

しかし、一度「陰謀」だとか「大人の事情」だとか、それを不可解ものとして捉えてしまえば、それを払拭するのはなかなか難しい。不可解な処置が差し挟まれる余地の無いよう、図書館はTSUTAYAにという直観(それは、あくまで市長個人の直観であるわけだが)に基づいたプロジェクトを強行することになった、というところではないだろうか。一般競争入札にしたら、TSUTAYAじゃなくて○○建設が、スタバじゃなくて○○商事が入ってきて、うまみを全部吸い取ってしまう!実際のところ武雄市図書館プロジェクトは、築10年ちょっとの既存図書館のリフォームという、建設事業部分のウェイトの極めて小さいものだったので、普通に入札をやっていてもゼネコンが名乗りを上げることもなかったと思うが、疑心暗鬼がゲオやドトールをはじめとするTSUTAYAやスタバの競合各社の参加を締め出してしまった、と想像を膨らませてみる。

  • 純粋で素朴であるがゆえに露見するPPPの危うさ

このように、武雄市長のPPP観は非常に素朴で、純粋なものだと想像される。

素朴で純粋な考えのもとに遂行されたプロジェクトだけに、PPPやPFIの、制度としての危うさが見て取れる。すなわち、役人の果たす役割が、複雑に過ぎるのではないかということだ。

役人は、PPPにおいてパートナーとなる民間企業を選定するまでは、「役人の知恵だけでもできるのではないか」という役所内部の批判を退けながら、できるだけ民間企業にそれを委託する部分が大きくなるよう奔走しなければならない。前述の通り、ハコモノ防止のためという理念的な目標のためだ。しかし、それが理念的であるがゆえに、心情として、民間企業に味方する側に寄ってくることも、仕方のないことだと言える。

しかし、ひとたび事業を委ねる民間企業が決まったとなれば、これまでの立場を一転させる必要がある。民間企業が、その通常業務として利益を追求したプロジェクトを推進してくるのに対し、これまた役人は役人の役割であるところの、市民の利益確保というところに主眼をおいた動きをしなければならない。

具体的な事例を、武雄市図書館で見て見よう。

改修された武雄市図書館には、二方向避難の取れていない、長い廊下がある。下の、館内ストリートビューに見える、吹き抜けに面した廊下がそれだ。

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書棚に向かって左側、つきあたりにはバリカーと呼ばれる仮設の衝立てのようなものがあるが、それを押し倒して向こうに進んでも、階段はない。つまり、退路において火災でも起きようものなら逃げ場はなく、手すりを乗り越えて1階に飛び降りる身体能力がなければ、救いの手を待つのみである。もちろん、これほどの書棚があれば火災の可能性がないはずはなく、また地震などがあれば書籍が崩れ落ちてくることもあるだろう。

これを禁じる法律はもちろんある。しかし、個別的で細かい部分での法律の解釈は、基本的に市長に任命された建築主事に任されているのが現状だ。建築というものはひとつとして同じ形がなく、言葉でできた法律がそれぞれのケースを細かく縛ることは非常に難しいからだ。だから、建築主事がバリカーを建てれば「室」の区切りだと判断すればそうであり(建築基準法施行令第120条)、こんなクリティカルな廊下であっても、ただの「重複区間」と判断すればそうなのである(同第121条)。

この建築主事が、普段からこういう判断をしているというのなら、例として出したのは不適当だと言わざるを得ない。しかし、もしこれが、プロジェクトを強力に推進し、かつ自らの任命権者であるている*1市長の意向を慮ったものであるとすれば、ことは市民の命にかかわることであるがゆえに、非常に問題である。すなわち、市長-建築主事というラインが、民間企業の味方から市民の味方へと立場を一転させるというどんでんがえしのタイミングを、完全に逸してしまっていると言えるだろう。

あまつさえ、市長は「建築基準法がおかしいのだ」などという旨の発言をしているようであり、いまだ転換を実現できていないようである。この辺りの情報は、以下のまとめに依っている。
武雄市図書館2階のポールパーティションと巨大書架のリスク - Togetter


冒頭で述べたことと裏腹に批判めいた文章になってしまっているが、これは単に市長の資質に帰すべき問題とも言い切れないと、私は考えている。果たして、ハコモノをなくそうと情熱をもってアウトソーシングを推進してきた同じ人間が、ある瞬間を境にして、市民の利益を最優先にものを考えることができるのだろうか(ここでいう利益とは、生命はもちろん、読書の権利を確保することなど、諸々である)。もちろん、そういうことのできるバランス感覚の取れた人間が市長なり、役人になることが望ましいのだが、そういった人材には限りがあると考えるのは、悲観的に過ぎるのだろうか。

建築のプロジェクトには非常に多くの人々が関わり、それぞれがそれぞれの利害をもっている。現場はたいていの場合、それを調整するだけで精一杯なのだが、ここで見たようなPPPに関係する特殊なケースでは、利害の方向性にバリエーションが少なく、それがゆえに同じ人が、フェーズごとに違う立場をとってことに臨まなければらならいという事態が生じてくる。

もともと、ハコモノは役人が、全てに市民のニーズを把握できているかのような振る舞いをしていたがために生まれたものであると、私は考えている。そうであれば、同じ役人が、プロジェクトの途中で役割を変えなければならないような仕組みというのは、また別の弊害を生みだす可能性があるのではないだろうか。

*1:武雄市には建築主事はいないそうです。お詫びして訂正します