集約型社会構造(コンパクト・ソサイエティ)の実現に向けて

タイトル、なんだかすごくありそうな言葉だけど、ググってみたところ使っている人はいないみたいです。実のところ、以下のようなところで使われている言葉をもじって、私がいま作りました。

集約型都市構造の実現に向けて | 都市・公園・建設産業 | 国土交通省 関東地方整備局

漢字で集約型都市構造というより、カタカナでコンパクト・シティと呼ばれることの方が多いかと。

日本はとっくの昔に少子高齢化時代に突入しているわけであり、人口は今後どんどん減っていくものと思われます。都市の範囲が無駄に大きいと、除雪であったり交通網の整備であったりといった市民サービスを行き届かせるための、お金も人手も膨大にかかる。そこで、都市の範囲を狭めましょうというのが、コンパクト・シティです。

カタカナ語で呼ぶと、何か積極的な施策を打つようにも聞こえるかもしれませんが、お金も人手も足りない、というのがそもそもの動機なわけですから、そんな景気のいい話であるわけがありません。

町はずれにひとりで住んでるおばあちゃんに、「雪かきは今年まで。来年はしないよ。それに、バス路線も止めちゃうから、町の中心に引っ越してきなよ」と告げることが、やることのほとんど全てであるはずです。

もちろん、おばあちゃんを都市の中心に呼んでくる以上、おばあちゃんが住めるような住宅を用意したり、おばあちゃんでも乗れるような低床のバスを中心部で循環させたりするのかもしれないですが、それは渋々やっているわけで、できればやりたくないこととなるでしょう。しかし、雪かきしない、バス路線止める、みたいなネガティブな政策だと説明したら誰もが抵抗するでしょうから、コンパクトシティ政策といったときには、こうした積極的な施策を指すことが多いようです。


さて、都市についてはこんな風に、みんなが散り散りに住んでもらっては困るんだ、という話が進んでいるわけです。もちろん、居住移転の自由は憲法で保障された権利ですから、除雪もしてもらえなければバスも来ないところに住むのは勝手です。しかし、そのためにかなりの不自由を我慢してもらうことになります。

では、こういう話は都市構造に限ったことなのでしょうか。

都市構造そのものが、社会を入れる器のようなものですから、社会全体も、今きっと似たようなことになっているのではないかと。少子高齢化で、お金も人手も足りないから、みんなが勝手な生き方をされては困る、ということが起きているのではないかと。

そういう目で、近頃のニュースを眺めてみると、たとえば女性手帳を配ろうというのは、都市で言えば循環バスを走らせるような中心部というのは、女性の生き方で言うと、こういう生き方になりますよ、というようなものを示そうとしてたんではないかと。もちろん、どんな生き方をするのも勝手でしょうが、行政としては、除雪をやめたりバス路線を廃止したりするのと同じように、女性手帳に書かれた生き方とは違う生き方をする人に対しては、こまごまとしたサービスを、停止せざるを得なくなるときがくるだろう、と。

はたまた、銀座の隠れ家的なイタリアンレストランをバリアフリーにできるか、というような問題に関しては、ほとんどコンパクトシティの問題と根っこが同じなので、解説は省きます。


コンパクトシティが、避けられない施策であるのと同様に、今後、いろいろな場面において、行政として「望ましい生き方」というのが示されることが多くなると思います。それは、都市で言うと、「ここを都市の中心にするよ」と宣言しているようなものです。よって、もし都市の中心にするにはふさわしくないような場所が指定された場合、声を上げて反対する必要があると思います。しつこいですが、これはたとえです。生き方も同じです。

しかし、女性手帳のときにネットから上がった声は、「生き方への過干渉だ」といったものが主でした。これが、都市に置きかえるとどうなるか。どんな町はずれに住んでも、それは私の勝手だから口出しするな、という意見は、個人の意見としては納得できるものではあるものの、その先の未来を見通したものであると言えるでしょうか。