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インドで生まれた俺の世界観、あるいはひとつの空間をいくつかの社会が占めることについて

亀の上の世界が乗っかっているという世界観はインド人のものではないとか。

広まっている「インド人の宇宙観」は誤解がある! - Togetter

中にはこういう世界観を持ったインド人がいたのかもしれないし、いなかったかもしれない。それはどちらでもいいです。もっと確からしいのは、ドイツ人だかなんだかのヨーロッパ人が、インド人の世界観はどうなっているんだろうと疑問に思い、何かの答えがなければ心が収まらなかったんだろうということ。

最後にインドに行ったのはもう10年も前のことになるので記憶もあまり定かではないけれど、わたしもインド人の世界観はどうなっているんだろうという疑問に取りつかれた。

たとえば、マニカルニカーガートの光景。焼ける死体を取り囲み悲しむ、遺族と思われる女性たち。後ろを流れるガンジスに浮かぶ子どもの死体には目もくれない。それを眺める俺。ここは観光客立ち入り禁止だが何百ルピー払えばノープロブレムだとか言ってくる詐欺師のオヤジ。

こう書くと混沌とした場面だが、どことなく静かな記憶がある。俺に話しかけていたオヤジはうるさかったはずなのに。

これが西洋の価値観なのか、日本の価値観なのかはわからないが、さまざまな事象が同じ空間の中で起っていると、どうしてもそれぞれの事象の間にストーリーを作りたくなってしまう。天寿を全うして聖なる河で死を迎えることのできた老人よりも、後ろを流れていく子どもの死を嘆いた方がいいんじゃないかとか、そういう光景をダシに詐欺をはたらこうとする奴は不埒だとか。わざわざ日本から足を運んで、そんな光景を眺めている自分を棚に上げて。

しかし、彼らインド人同士が、お互いの振る舞いに関心を向けることはなく、たとえば、家族の死を嘆き悲しむ女性たちが、詐欺師を非難するようなことは起らない。それぞれの事象は、それぞれ別々に、粛々と進行していくのである。

なぜかという問い自体が、成立するものなのかよくわからない。それはそういうものだと言ってしまえば、納得せざるを得ない。ただ、もし、そのとき時間があるに任せて考えた仮説に意味があるとしたら、こうだ。

彼らインド人は、ひとつの空間の中に、いくつかの独立した社会・コミュニティを成立させていて、それぞれの社会はお互いに不干渉を貫いているんじゃないか。ちょうど、PhotoshopやAutoCADのレイヤー機能で、それぞれのレイヤーを可視にしたり不可視にしたりできるように、自分の属する社会とは違うレイヤーにいる人をオフにしているんじゃないか。全ての事象に目を向ければ混沌でしかない場面も、それぞれのレイヤーだけを取り出して見れば、秩序を取り戻してくる。

それぞれのレイヤーを形作っているのは、いわゆるカーストというものなんだろう。もしそうなのだとしたら、日本でカーストを説明するときに使われる階級制度や身分制度といった言葉から想像されるような「上下関係」を、10年前の1か月、15年前の同じく1か月の都合2か月の滞在の中で目にすることがなかったことに、説明がつく。

もちろん、自分以外の人の世界観だとか宇宙観だとかいうものがどういうものなのかは、わかりようがない。ましてや、インドに暮らす多様な、かつ膨大な人々、それぞれの世界観など。ただ、俺自身のことを言えば、インドの人たちの暮らす姿を見て生まれた仮説が真であれ偽であれ、同じ空間の中にいる人は、一つの社会を共有しているんだという固定観念がひとつ取り払われ、世界を見る目が少し変わった。

亀の上に世界が乗っかるという、いわばレイヤーを示す絵を見て、そういうことを思い出したりした。