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低廉な建築材料を使いたいという思いは、今も昔も変わらない

建築はデカくて重い、という話は、前に書いたような気がします。
コンクリートからどこへいくんだろう - concretism

建築というものが、いかに大きくて重いものであるかは、近所に工事現場があれば、そのゲートの前に立って一日観察しているとよくわかると思います。大きい現場であれば、一日に出入りする10tトラックが100台を超えることもある。東日本大震災を機に、長周期地震動というリスクに対しての備えが叫ばれているこのごろでは、建築はさらに重たいものになりつつあるとも感じています。大きくて重たいものを運ぶには輸送費がかかります。体積が増すほど、重量が増すほど、そして運搬距離が長くなるほどに、より多くの輸送コストがかかるのであり、コストはできるだけ抑えたい。

では、前近代、産業革命以前の昔であればどうであったか。自動車が馬車だったりといった運搬手段の違いこそあれ、大きくて重い建築資材ほど、より多くの人がより多くの時間をかけて現場まで運んできていたと考えられます。資材の運搬に、多くの人が多くの時間をかけるほど、目的の建築物がなかなか完成しないばかりか、建設作業に従事していた人が他に従事していた、たとえば農作業などの仕事も滞ってしまうことになる。したがって、建設資材はより近いところから手に入れようとしていたはずであり、それによって街全体が統一された材料の建築で埋め尽くされ、統一された街並みが完成されるわけですけれど、それは今回の主題ではありません。

重要なのは、建築物の建設、とりわけ資材の調達にかかるリソースは小さいほうがよい、という価値観は、近代という激動の時代を経ても何も変わっていないということです。

逆に、豪華さを演出したいときには、今で言えば高い材料を使えばいいわけです。昔で言えば、より遠くから、手に入りにくい材料を手に入れて建築に使えば、周囲の建築物とは明らかに違う建築ができあがるわけであり、それによって教会の威信や、王の権威を示すことができる。今でも、本社ビルのロビーには、高価な石材を使って豪華に仕上げたいというケースはよくあるわけで、この点、何にも変わっちゃいないわけですよね。

もちろん、近代化による変化がなにもないというわけではありません。工業化によって生産拠点が集積され、安い土地に高度な機材を揃えることで、製品の価格を抑えることに成功した。このことにより、単純に資材を手に入れてくる距離を、リソースの大小に置き換えることができなくなったのは確かです。遠くても効率的に生産している工場から仕入れたほうが、輸送費の増分を補って余りあるメリットを得られるケースが多くなってきている。

また、輸送機械の発達と経済の国際化によって、調達可能地域が世界にまで広がったことにより、賃金水準の低い国で製造された安い製品を調達する、という他の産業と同じことが建設産業でも起こっていないわけではありません。北京オリンピックの時には日本国内の鋼材価格が高騰して、多くの新築物件が鉄骨造から鉄筋コンクリート造に変更されましたし、その後、民主政権下で円高が異常に進んだときには、建設資材の海外調達が見直されました。アベノミクスで円安が進めば、情勢はまた変わるでしょう。変化は決して一方向ではなく、行きつ、戻りつしているわけです。

また、こうした付加的要素は、冒頭に述べたような、大きくて重い建設資材の運搬費というものをベースとし、その上に乗っかってくるものであるため、付加的要素が原因でリソース全体が逆転するというケースは、小さくて軽いものを扱う他産業と比較して少ない。これが建築をつくる世界の、大きな特徴であるわけです。

近代より前の時代にも、調達距離以外による情勢の変化、たとえば自然災害や戦争などによる調達コストの変動はあったものと思われます。こうした変動は、いつの時代にも考慮されるものであり、それによって変化した調達コストを調査し、要求性能を満たしたうえで最も低廉なものを原則として選択すればよい。その精神は、今も昔も変わらないのです。