社蓄の生成とその解消に関する考察

社蓄という言葉がある。会社が、ヒトであるところの日本のサラリーマンをあたかも所有しているかのように見える状況を指す言葉として、なかなかわかりやすい。

所有と言う関係は、本来ヒトからモノへの一方通行である。ヒトが、モノを、所有する。ヒトがヒトを所有したり、モノがモノを所有したり、ましてやモノがヒトを所有するような事態というのはありえない。なぜなら、モノは所有という意識的になされる行為に必要な意識そのものを持ち合わせていないし、一方で、所有されるヒトというのは奴隷であって、現代の世の中では、意図的に禁止されているからだ。にもかかわらず、多くの日本のサラリーマンは、会社に所有されていると感じており、会社が社蓄を所有するという、一見モノがヒトを所有しているかのような関係が現に存在しているのはなぜだろうか。

会社がモノを所有できるのはなぜかという問題については、岩井克人氏の著作「会社はこれからどうなるのか」に非常にわかりやすく著されている。まず、会社は株主の所有するモノであるというのならば、例えばスーパーを経営する会社の株主は、その会社の資産であるところの、売り場のりんごをどうして齧ってはいけないのか、という素朴な疑問から、「株主が会社を所有する」「会社が会社資産を所有する」という二階建ての所有関係の存在を順々に説いていく。そして、会社が会社資産を所有できるのは、会社が法人という、ヒトでもあり、モノでもある存在だからだ、と説明される。

日本の会社との比較対照としてアメリカの会社を考えると、日本の会社はヒトとしての性格が強く、アメリカの会社はモノとしての性格が強い。株主がはっきりと個人としての意志を前面に押し出して行動するアメリカ社会の場合、会社は所有されるモノとしての性格を強め、単なる契約の束に近い状態となる。一方で、モノに対してはヒトとして、ヒトに対してはモノとして振る舞うことができる法人の特徴を活かし、法人が法人を所有するという関係をグループ会社間で網目のように張り巡らせる作戦によって、会社のモノとしての性格を極限まで減じているのが日本の会社である。日本では、会社はあたかもヒトであるかのように振る舞い、さまざまなモノを所有しているのである。

ヒトとしての性格が強い日本の会社は、モノを所有する力がアメリカの会社よりも強いと言えるのではないだろうか。と、言っても本来は所有と言うのは所有されているかいないか、いずれかしかないのであって、強いとか弱いとかいう比較は適当ではない。ただし、所有される側が、所有されていると思い込む意識を持つことができるヒト、つまり日本のサラリーマンであった場合は別である。これがアメリカ社会であれば、「フン、モノである会社なんかに所有されるわけないだろ、バーカバーカ」と言っていれば済む話なのだが、日本の会社は、あたかもヒトであるかのように、社長とそっくりの顔をして*1睨んでくるので、日本のサラリーマンは、自分が所有されているような気分になってしまう。

会社がモノを所有できる日本では、ヒトが会社に所有されてしまう!これは甚大な人権の侵害だ!と、騒ぐ前に、少し冷静に考えてみたい。日本の会社は、サラリーマンの人格含めた全てを所有してしまっているのだろうか。岩井氏は前掲の著作の中で「組織特殊的人的資産」という言葉を使っている。漢字ばっかりで取っつきにくい言葉ではあるが、要するに「その会社の中でしか役に立たない知識や技術」を指しており、会社が所有しているのはこの部分だという主張である。アメリカの会社はモノを所有する力が弱いので、アメリカのサラリーマンは組織特殊的人的資産を持とうとするモチベーションは低いと思われる。雇用が流動的であるアメリカのサラリーマンにとっては、次の会社に移ったときに全く使えなくなるような知識や技術の習得に労を費やすことは、決して本人にとって得にはならないはずだからである。

しかしながら、会社にとって、組織特殊的人的資産は必要なものである。そもそも、いわゆる企業秘密と呼ばれるような情報は全て組織特殊的人的資産に含められるものであり、これがなければ同業他社との差別化が図れず、競争に敗れていってしまうことになる。では、アメリカの会社ではどうやって組織特殊的人的資産を保持するのかと言うと、特定の人物に高い報酬を払うことによって、その習得に対する労をねぎらい、情報の流出を食い止めていることに他ならない。組織特殊的人的資産の保持、という契約(所有ではなく)を結ぶことによって、所有関係に頼らない方法をとることになるが、これにかかるコストが割高になることは否めない。その上、契約である以上、それが切れた後の保証はないのである。

一方で、日本の会社は、組織特殊的人的資産という資産そのものを所有できると、岩井氏は言う。しかしながら、対象は人間に付随する知識や技術であり、一方的に宣言するだけでそれが成立するとは私には思えない。そこで、日本の雇用システムというのが実に有効に働いていることに気づく。すなわち、年功賃金と、長期(終身)雇用、企業別組合である。若年層に対しては低く、中高年に対しては高くなるよう賃金カーブを設定し、さらに定年まで勤め上げたものには高い退職金を設定しているのが、日本型雇用の一つの特徴である。組織特殊的人的資産というのは一朝一夕に形成されるものではなく、一人のサラリーマンが長年、一つの会社に勤め続けることによって形成されるものである。しっかりと組織特殊的人的資産を形成した者には、中高年になってからの高い報酬で報いましょうというのが、日本の会社の考え方である。さらに、組織特殊的人的資産を持ったまま、他社に去られたりするようなことがないよう、人を会社につなぎとめておくための、身代金としても作用する。さらにさらに、一つの見方としては、若年時に労働の対価としての賃金をその場で受け取らず、中高年になってから受け取るということは、会社に対して若年時に出資していると見ることもできるわけであり、出資した分に対する見返りを中高年時に受け取っているとも解釈することが出来る。日本のサラリーマンは、一労働者に過ぎないのに経営者の視線を持ち過ぎていると嗤う風潮があるが、むしろ日本のサラリーマンが持っているのは経営者視点ではなく、出資者、株主視線ではないだろうか。若年時に出資した額を回収するためには、退職金を支払われるときに、会社経営が悪化していたり、倒産していたりしては困るのだから、そのような視点はむしろ当然のことといえる。

私が強調したいのは、日本の会社はアメリカの会社と大きく異なる性格を持っているが、決して非合理な存在ではないということである。ここまで述べてきた日本の会社とアメリカの会社の、程度の差によるものではあるものの、性格の違いは、それぞれの会社のステークホルダーが資本主義社会において合理的な判断のもとに形成してきたと考えられるのであって、その会社に対する関与が薄い者たちがいくら周りで騒いだところで何の力も持たないのである。また、日本の会社の特徴として見えてくるさまざまな側面は、このような構造的な違いをバックグラウンドとして持つものであって、その部分部分を切り出して、解雇規制の緩和だとか何だとか論じたところで何も見えてこないし、実現もしないのである。本当は、個別の問題についても書いていきたいが、ブログの一エントリとしては少々長く書きすぎた。

最後に社蓄の話に戻ろう。日本の会社は確かに、サラリーマンというヒトに付随する知識の一部を、組織特殊的人的資産として所有することができる。しかしながら、人格を含むヒトそのものを所有することは許されない。どこまでが組織特殊的人的資産なのかと言う範囲を明文化していないことをはじめとして、不文律と信頼関係に基づく部分の大きい日本の労働契約のあり方には問題が多いと考えている。しかしながら、ホワイトカラーエグゼンプションがろくな議論もしないうちにマスコミの感情的な論調によってつぶされてしまったことを見てもわかるように、労働契約の枠組み自体を変えていくにはそれなりのエネルギーと時間がかかる。現状、日本のサラリーマンが社蓄にならないよう、自己防衛として身に付けておかなければならないことは、自分の中の何が会社に所有されていて、何が会社に所有されていないのか、という線引きをしっかりと自分の中に持っておくことであり、誰のものでもない自分は自由に行動すべきであることは言うまでもない。

*1:社長をはじめとする代表取締役は株主から雇用されているわけではなく、法人から「信任」されている、という話も岩井氏の著作に記されているが、寄り道になるので。