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文系の言葉の使い方はいい加減か

昨日、Twitterで出た話題、文系の言葉の使い方はいい加減だ、という話に違和感を感じたので、そのとき思ったことをメモしておく。

もともとの話は、文系の人は軽々しく100%とか絶対とかいう表現を使いすぎるというものだったと思う。確かに、こういった言葉は厳密な意味では使える場面などあり得ないわけであり、慣用的な誇張表現で、たとえばビジネスの場などにそぐわないものであることには大いに賛同する。違和感を持ったのはそこではなく、文系だから、とする点である。

私の知る限り、文系の世界の言葉の使い方は非常に厳密であって、その度合いは、知能の限りを尽くす、という点において純粋数学における論理記号の取り扱いといささかも変わるところはないように思う。

しかし、理系と文系では、言葉に対する捉え方が異なる。というより、この捉え方の違いが、文系と理系という区分を可能にしているのではないかとすら思う。

理系にとって、言葉は定義されるべきものである。ある対象があって、それを表すには、この言葉を使おう、と誰かが決めたからこそ、そこに言葉と意味との関係が生まれ、新しい言葉が成立すると。

一方、文系にとって言葉の意味とは、過去の言葉の使われ方の集積によって成り立つものである。これまで、この言葉はこのような場面で、このような対象を指し示すのに使われてきた。だから、現在この場で使うべき言葉はこれである、というような。

これはどちらが正しいか、あるいはどちらが優れているか、という議論を促すものではない。一つひとつの言葉が、どのような成立過程を経たかということについて調べることも不要である。現実の言葉は、使われていく中で意味が変わったり、途中で定義し直そうとする動きがでたり*1して言葉として成り立っている。要するに、どちらの側面も持っているのであり、時と場合によって考え方を変えていくのが、正しいとまでは言わないものの、効率的なやり方だろう。

例えば、新たなものを研究開発していく場面では前者が有効だろうし、既存の仕組みを維持運営していく上では後者が効果を発揮するだろう。

しかし、ここで敢えてそうしたように、理系、文系というレッテルを貼った途端、アイデンティティを賭けた論争に発展しがちである。「言葉」という部分を「認識」に、「対象」の部分を「世界」と置き換えることで、問題をイデオロギーの領域に引き上げることは可能であるとは思うが、上述の通り、アイデンティティの乗り物としてはかなりバランスが悪い。

理系的な捉え方で社会システムを運用していくことは、社会主義に謳われた概念そのものであるし、文系的な考え方で未知なるものに向かうときには、宗教的な領域に踏み込まざるを得なくなるような気がする。これは、そんな気がするだけなので、別の機会でちゃんと考えてみたいと思う。

いずれにせよ、「だから理系は」「だから文系は」といったような排他的思考は、無知無理解から出るものであり、具体的には理系の人は文系の、文系の人は理系の、優秀な人物と接する機会に恵まれていないことに起因するんじゃないかなぁと思ったりした。理系の世界で生きていると、文系の優秀な人物と接する機会というのはかなり少ない。そこら辺にいる凡庸な人材を拾い上げて、だから文系はなどと切り捨てると、痛い目を見かねない。

自戒を込めて。

*1:辞書の編纂は、そのひとつだ。