ネットの価値は質の低い言論によって担保されている

テクノロジー :日本経済新聞
おそらくこの記事を出発点として、いろんな意見が出てくると思うので、わたしも思うところを書いてみたいと思う。

これまでの、一方向にしか情報が流れないマスコミの時代には、間違った情報=悪であった。しかし、現在のように誰にでも情報発信が可能な時代においては、間違った情報を見つけた場合には、それに反論することが可能である。わたしたちのような弱小ブロガーにとって、圧倒的な読者数を持つマスコミの情報を修正すると言うのは簡単な行程ではない。しかし、それが正しいことであれば、多数のブロガーやブックマーカーなどの支持を得るのではないか、あるいはどこからか根拠となる情報が発見されるのではないか。少なくとも、はてな界隈にいる私を含む人々の描いている希望的構図は、このようなものになるだろう。

そういう時代において「質の低い言論」とは何だろうか。単純に事実を誤認しているような記事でも、「事実を誤認してしまったのはなぜか」とか「誤認するような情報しか持ち得なかったのに、その記事を書いたのはなぜか」というような新たな情報を含んでいることになる。それは、書き手が新聞記者であればもちろん大きな問題であるし、弱小ブロガーであっても、例えば「誤認されるような報道の仕方だったのではないか」いう意味で価値を持ったりする。乱暴な言い方をすれば、書き手の質と、記事の持つ情報の質は比例しないのである。

当然ながら、書き手によって文章の巧拙には差がある。下手な文章をわざわざ「下手だなぁ」なんて批判していたらきりがないほどの大量の文章がネット上には漂っている。もちろん、個人としていいものを書きたいという気持ちをもって努力すること、そしてその結果としていいものが書けるようになることは素晴らしいことであるし、ネットの価値を上げることにとって非常に重要なことだと思う。

しかし、文章のうまい人でないとブログを持ってはいけない、というような風潮が生まれることによって、これまで情報を発信をしたことがない人が、新たに情報を発信しようという意志を持てなくなってしまうようなことがあってはならない。そうなっては、「誰にでも情報発信が可能な時代」という、前提が崩れてしまい、この文章もイチから書き直しになってしまう。


わたしは、このブログのエントリーのほとんどを通勤電車の中で書いている。話が結論にたどり着く前に自宅の最寄り駅についてしまったり、時にはほろ酔いだったりするのだけれど、それはそれ、おそらく冷静に考え直しちゃったりすると、自信がぐらついてアップするのをやめてしまうと思ったときなどは、思い切ってアップする。そんなわけで、「質」という点ではとてもじゃないけど誇れるものではないと自覚しているつもりだ。読んでくださる方に申し訳ないという気持ちはないではないけれど、見直すほどの時間がないという自分の生活とか、見直すと消しちゃう自分の性格ってのもある種の情報なのではないかと、いいように自己解釈している。

少なくとも、こんなヨタついた文章でも、誰か知らない人に勝手に修正されていたり、あるいは消されていたりというようなことはないので、日本は言論統制とか敷かれていないんだなぁ、と思ったり思わなかったりする。これは、自分でブログを書いてみないと得られない情報だと思う。そういう意味では、「ブログの炎上」で記事あるいはサイトごと消えてしまう事態というのは、かなり危険な要素を含んでいると思う。別に陰謀論を振りかざすつもりではないけれど、そういうこともありえないことではないと思うので、冷静に、そしてみんなで観察することが必要だと思う。

元ネタの記事に、質の低い記事は排除しろ!というような意志がないのはわかってるつもり。でも、逆に、ネットというメディアの価値を担保しているのは、質の低い言論なんだ!と言うほうが、ネットあるいはブログというメディアの本質を言い表しているのではないかな、と思った。