安藤忠雄に都市を語る資格はあるか

建築家と言えば、安藤忠雄

世間一般の評価はそのようであるし、どうやら本人もそれを否定する気はないらしい。


普段、建築的話題と接する機会の少ない人ほど、この人の話題を持ち出すことが多いので、少々どころではなく辟易してしまうのだけれど、徐々にその戸惑いは、「建築家と言えばガウディ」と言われたときの感情と相似形を取るようになってきた。

たぶん、建築を生業にしている人に、好きな建築家は誰ですか?と訪ねたとき、ガウディの名をあげる人はほとんどいない。理由はいろいろあるのだろうけど、そもそも、ガウディは建築家なんだろうか?という素朴な疑いが払拭できないのだ。建築家でなければ何なのだといわれると、芸術家、かな?といささかためらいながら答えることになる。

このように言うと、芸術家は建築家を含む上位概念ではないのかと思う方もおられるかもしれない。しかし、建築家には、技術的、経済的、法規的、社会的な数々の制約に答えていく必要があり、芸術的な要求はその中の(大なり小なり)一部にすぎない。これは、決して建築の芸術性を軽んじているわけではない。例えば、芸術家に自らの作品について説明を求めることは慎むべき行動だが、建築家にこれを求めるのは当然である。見たい人だけが見る、見たくない人は見なくていいという芸術とは違い、建築は避けがたい規模で都市に存在するのが通常だからである。わかる人にだけわかればいい、という態度は、芸術家には許されても、建築家には許されない。*1芸術家と建築家は、違うものなのだ。

そこへくると、安藤忠雄が建築家であるという命題に、疑問の余地が生じてはこないだろうか。彼は、技術的、経済的、法規的、社会的な制約にとらわれることなく創作活動にいそしんでいるように見える。彼にそれが許されるのは、これまでの作品の評価によるものであるし、その評価は決して間違っていない。彼のつくる作品は、空間は、間違いなくすばらしいのだ。ただし、芸術的に。

神戸の北野坂あたりのレンガ仕上げの初期作品を見ればわかるように、彼のスタートは間違いなく建築家としてのそれであった。しかし、本人が意識していたかどうかはわからないが、彼の作品は徐々に都市から距離を取りはじめる。コレッツィオーネやTIME'Sが代表作と言われた時代に、彼の評価はすでに定まったものであったから、このような指摘はあまり上がってくる事はなかったが、近年の彼の作品に、日本の都市と真正面から向き合うものが少なくなっているのは明らかだ。これは、表参道ヒルズが地下深く潜っていったことを見てもわかるだろう(都市に面する役目は、同潤会アパートに丸投げしたかたちだ)。中ノ島や副都心線の卵は、彼の「殻に閉じこもる」姿を象徴でもしているのだろうか。

もし、安藤が芸術家として振舞うのであれば、これは何の問題もない話である。繰り返すようだが、「なかに はいれる 彫刻」としての彼の作品はすばらしいのだから。しかし、彼は自らを建築家と称することをやめない。あらゆるメディアに登場し、建築家代表として意見を述べる。彼が自分の作品を語るとき、そこにあるのは「解説」である。親切にも、芸術に対して理解の低い人々とされる我々に、教えてくださっている。しかし、それは本来建築家がなすべき説明とは違い、クライアントに対する、近隣住民に対する、社会に対する「責任」というものは伴っていないように感じるのである。安藤の作品を実際に体感した人はわかると思うが、彼の作品には本来的に、解説など不要なのである。

彼が東大教授に就任した頃(それは、先述のコレッツィオーネやTIME'Sが代表作と言われた時代と重なるのだが)には、まだ彼には建築家としての期待、すなわち、都市に対して、社会に対して答えを出してくれるのではないかという期待があった。ただし、その期待は、現在彼がマスメディアを通じて流しているような言論による答えではなく、作品を通じてのものであったことは言うまでもない。

しかし、結局のところ安藤は、「コンクリート打ち放しの安藤」から脱することはなかった。コンクリート打ち放しをもって、都市に対する、社会に対する説明責任など果たせるはずもないのに。

前エントリーを参照の上、安藤の作品を作る方法を思い浮かべていただきたい。型枠の合板は3回以上再利用されるのが常だが、安藤作品に使われる合板はすべて新品である。つまり、安藤作品の3倍の型枠を使う現場(当然、コンクリートの上には他の仕上げ材が載る)が他にないと、経済的には成り立たないのだ。また、その形状の複雑さゆえに転用不可能な型枠については、安藤作品1回のみで廃棄されることは言うまでもない。

また、壁や柱で言えば低い位置になるほど多くのセパレーターを入れる必要があることについても説明したが、安藤作品のセパレーターの割り付けは常に1パネルにつき6個(だっけか?)と決まっているのだ。これを実現するためには、「不自然」な方法をとらなければならない。その不自然な方法こそ、日本のゼネコンの技術力の高さそのものなのだが、緻密な力学計算に基づく重仮設(鉄骨などを使った、大規模な仮設物)などによるものである。時に、その「重」さは本設(本体)をはるかに上回るのではないかと推察される。

使用するコンクリートも通常のようにはいかない。普通、ひとつの現場には複数のプラント(生コン製造工場)からコンクリートが供給される。地域の生コンプラントは協同組合をつくり、同じ値段でコンクリートを出荷する。その日にどこのプラントから出荷されるかを選ぶ権利は、ゼネコン側にはないのが普通であり、自由競争というものは存在しないのだ。しかし、このような仕組みにしないと、たとえば少しでも偏狭にあるプラントは早々に倒産してしまう。もし、その偏狭の地で工事が発生したときに困るのはゼネコンなのである。

各プラントは、使用しているセメントも骨材も違うため、微妙に色合いが異なる。そこで、安藤作品に使うプラントは、一社のみに限定することとなる。上記のようなプラントごとのバランスが崩れるのは言うまでもない。全体にわたって、同じ調合のコンクリートを用いるため、充填する箇所によってコンクリートの強度を変えるということもできない。これも色変わりの原因になるからだ。

ほかにも、型枠の精度管理や目違いの処理、増し打ちが大きくなること以前に壁厚を過大にとることなど、増える苦労は枚挙に暇がないが、請けるゼネコンもこれをタダでやるわけにはいかないので、当然費用を計上する。施主(クライアント)はゼネコンに吹っかけられたと思うかもしれないが、こちらに責めはないのである。

いずれにせよ、わかっていただきたいのは、一つの安藤作品が、いかに周囲の経済的、社会的、環境的条件によって支えられているか、というより、迷惑をかけているか、ということである。もし、どんな建物でも仕上げ材を一枚ひっぺがすことによって、安藤作品のような壁が現れると考えている方がいたら、即座に考えを改めていただきたい。仮に都市の建築物が全て安藤作品のような打ち放しであったら、その経済的、環境的負荷は膨大なものになる。すなわち、安藤作品は、他の多くの建築、都市の犠牲の上に立っていると見ることができるのである。

それでも、社会が安藤作品を実現させるのは、それが芸術であるからだ。実のところ、私自身、安藤忠雄が都市に対する答えを出してくれるのではないかという期待を捨てきれずにいるのだが、もし、それをする気がないというのであれば、建築家としての肩書きを捨て、芸術家として活動していくべきではないかと思う。

現在、安藤忠雄の言葉に世間が耳を傾けるのは、彼の作品を認めているからである。世間が作品を通して彼の言葉を、彼の人格を信頼しているのだから、彼の言葉は作品に忠実でなければならないだろう。作品に忠実でない彼の言葉には、「妖怪変な髪型おじさん」としての価値しかないのだ。



ってなことを、「さっき安藤忠雄の作品集を見たが、本当に唖然とした」は言いたかったんじゃないかな!(ちげーよ。)

*1:この点、楳図かずおは芸術家であると私は思っているので、彼の自邸をめぐる一連の騒動は、必然と言える。