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なぜゼネコンは建築部門と土木部門とからできているのか

と、問いを立ててみたものの、多くの方にとっては土木と建築の違いですら明瞭でないかと思う。これについては以前に書いたので、そちらを参照していただきたい。

実のところ、建築と土木とで共有できるものというのは、それほど多くない。人材的にも技術的にも資材・機材的にも共有できるものはほとんどない。これは、意外に思う方が多いのではないだろうか。似たようなものをつくっているのに。

もちろん、どちらも地球上の物理・化学法則にもとづいているのだから、純粋にアカデミックな部分ではつながっていないでもない。と、いっても相互に論文をチラ見する程度ではあるが(個人的な所感としては、建築が土木をカンニングしてるほうが圧倒的に多い・・・)。

ゼネコン(元請)に限らず、協力業者(下請)も、土木と建築を兼業しているところは少ない。掘削地業や土壌汚染対策など、土に関するところと、ごくごく少数の鉄筋屋さんくらいだろうか。以前、普段は土木現場に行っている鉄筋屋と仕事したときは、定着の拾い方などが全然違うと愚痴ばかり聞かされた。

こうした断絶の根拠に、建築基準法をはじめとする法体系があることは以前にも書いた。加えて、発注プロセスの違いも著しい。発注者=設計者=監理者=監督官庁であることも珍しくない土木の産業構造を、建築が模することなど到底できないのだ。

では、こうまで重なるところのない二つの事業を、大手ゼネコンのほとんどすべてが横並び的に抱えているのはなぜか。

ひとつには、創業時には二つの事業の断絶がここまで明らかでなかったということもあげられるだろう。ここまで見てきたように、あくまで二つを分かってきたのは社会的、人為的な要因であり、明治時代に各社がのれんをあげた当時にはまだ、曖昧模糊とした部分があった。実際、EU加盟国で建築基準法的な役割を果たす「ユーロコード」は、建築と土木を同一基準で網羅しており、2つの世界の一本化が不可能というわけではない。もちろん、一本化するには多大な労力が必要であり、また一本化する必要性も見当たらないのだが。

そしてもうひとつには、こちらが本題だが、二つの事業は互いに補い合うかたちで利益を生んできた、という実績によるものである。ご承知の通り、ゼネコンの受注状況は社会経済状況に大きく左右される。左右されまくる。そして、建築は投資Iに、土木は政府支出Gに依存する。マクロ経済学的に、絶妙な組み合わせではないか。

土建屋のいーかげんな理解によると、景気がいいときには世の中にたくさんお金が回っている。回るお金が増えすぎるとインフレになるので、日銀は金利を減らす*1。お給料も増えるから消費に回しても余る。銀行に預けても金利が低いので、投資に回す。(消費=需要に応えるために供給を増やさなきゃいけない企業は喜んで投資を受け入れる。)てなわけで、景気がいいときには投資Iが増える。反対に景気が悪いときは、世の中に回っているお金が少ないので、政府がお金を持ってはなさない奴からふんだくって(というと犯罪みたいだが、要するに税金)、代
わりにお金を使ってあげる(=政府支出G)。いわゆる財政政策。

つまり、ゼネコンは景気のいいときでも悪いときでも、コンスタントに受注を得られるよう、土木と建築を二つながら抱える構造を取ったのである。

で、いま。みぞうゆう(なぜか変換できない)の不況*2にある中、政府支出Gは土木へ向かったか?断じて否である。

小泉政権が小さな政府、すなわち政府支出をしぼりにしぼる政策をとったのが正しいのかどうかわからない。しかし、同じ自公政権であるにもかかわらず大きな政府を目指しているようにみえる麻生政権も、土木事業を景気対策の主幹に据えることはないだろう。そこに、マスゴミが植え付けたゼネコン=悪のイメージによる呪縛があるかどうかはともかく、ゼネコンが構築してきた相互補完関係はすでに破綻したといって差し支えないだろう。

西松建設は、大手、準大手の中でも特に土木に偏った経営を行ってきた(好むと好まざるとに関わらず)。小泉政権時代は我慢に我慢を重ねたはずだ。それが、ここにきて、このようなかたちで、ある意味華々しく散りつつあるのを見ると、こう叫んでいるように見えるのだ。


も う や っ て ら れ る か 。


と。

*1:これがちゃんとできればバブルになんかならないけど、そうはいかないのが人情ってもん。

*2:いつまで金融危機なんて言葉を使うんだ。不況でいいだろ。