読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

人間のために建築するのをやめよう

建築 雑感

工場萌えとかテクノスケープなどと言われるものについて、まだ考えている。なぜなら、こうした、新しい(?*1)価値観に私自身同調しているからであり、それでいて、この価値観を新しい建築デザインへとつなげうる道は、今のところ見出されていないように思えるからだ。古いものを愛でることを批判するものではないが、現在の日本の都市景観がお世辞にも満足といえる状況でない以上、変えていく、つまり新しいものに置き換えていかなくてはいけない。放っておけば廃墟となって、美しくなるだろうというような思想は、極めて退廃的で危険なものである。

しかし、建築学会の学会誌である「建築雑誌」1月号の「新風景」特集は、テクノスケープ萌えという価値観の紹介にとどまり、それを踏まえて景観をどうしていけばいいのか、という点に十分に踏み込めなかった、ということは前回に触れた。そして、そこに踏み込もうとすれば、20世紀に散々使い古した建築論(それも、少なくとも日本においては大した成果を残せなかった理論)を、性懲りもなく持ち出さなければならなくなることも。

そもそも、真剣に考え出す契機をいただいた嘘をつかない,正直なデザイン,「本気で美しい景観をつくれますか」 - ポンパドール・パラソル:野望編では、議論することを厭わない姿勢でおられると信じているのであえて言うと、「嘘をつかない、正直なデザイン」というものが、こうした20世紀的建築論への逆行を示唆しているように思えてしまった。そして、

その美醜が霞むほどの多様な目的と価値観が存在する都市という建造物においては,そんなことは到底無理なので,景観のことはさっさと諦めてそれぞれの土地で好き勝手にすればいいじゃん,というのがこれを読んでのぼくの(投げやりな)感想.

という意見にも、「だって、これまでも好き勝手してきた結果がこのザマだよ!」と。

ここまで言ってしまったら、じゃあテクノスケープ肯定を踏まえたこれからの景観について、何か言わなきゃならないように自分を追い込んでしまった観があるが、施工屋であるという自身の立場をわきまえず言うと、

人間のために建築するのをやめよう。

これである。

いや、ほんとは「人間に媚を売るような建築はやめよう」程度にしたかったけど、パンチが弱いので。建築が人間のためにあることは、これまで疑いようのないものであったし、ついこの間のエントリーで、自身力説してしまったところなので、ちょっとまずいような気がしないでもないけれど、いろいろ考えているうちにこんなところに辿り着いてしまった。

工場、ダム、鉄塔、ジャンクション・・・、これらに共通して見られるのは、人間を相手にしないという設計コンセプトである。電柱など、人間なんか感電して死ねばいいのに、くらい思ってそうな気配がある。あえて「萌え」に沿って表現すればとんでもないツンデレである。ツン99.2%くらい。ツンツンされれば追いかけたくなる。あるいは、畏怖の感情だって芽生えるだろう。

「嘘をつかない、正直なデザイン」として、機能第一主義をあげるような話は、ルイス・サリヴァンの昔から出ているわけで、それでは説明がつかないのだ。様式や装飾を嫌うこと、なんてモダニズムそのものだし。しかし、建築の基準を人間に置くことには、あまり疑問を感じてこなかったのではないだろうか。コルビュジエモデュロール君が、妙にたくましい体で「やあ」って言ってる姿に、俺たちはみんな騙されてきたのではないかと。

人間が入るための器である建築が、人間を無視してどうなる、という批判は当然あるだろう。しかし、景観をつくる、という使命に重点を置いた場合、これを一度横に置いてみてもいいのではないか。さらに論を進めるなら、人間のことを考えるのは「インフィル」として専業すべきであって、景観をつくる建築家は、インフィルのことなど考えてはいけないのではないか。ここでいうインフィルとは、もちろんスケルトン・インフィルなどというちゃちな考えのインフィルではなく、ハブラーケンの考えた、もともとのサポート・インフィルとしてのインフィルの意味である。

これにより、建築はこれまでの建築ではなくなってしまうかもしれない。しかし、高齢化社会を迎え、建築がこれまで以上に人間に媚びへつらうようになれば、景観はますます力なく、ひ弱なものになっていくことは必然である。そうなる前に、建築は一段、その概念を押し上げるべき時期にさしかかっているのではないだろうか。

*1:ネットに高い親和性を持つ人々にとっては新しくはないかもしれないけれど、まだまだ建築の世界では新しいと言えるのではないかと思う。