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工場萌えを含みうる萌えの定義に関する考察

建築 雑感

嘘をつかない,正直なデザイン,「本気で美しい景観をつくれますか」 - ポンパドール・パラソル:野望編
青色3号
こちらのエントリーと同じく、「建築雑誌」1月号を読んで感想を書こうと思いましたが、その前段として。


萌えという言葉は、いわゆるヲタクが、アニメやマンガなどの美少女に対して抱く、好意的感情を指して使用されることが多い。萌え、萌えるという動詞に対し、主語と目的語の両方を限定しなければならないとは、奇妙な言葉であると言わざるを得ない。

しかし、そうした定義めいたものを奉ずる人々が扱いに窮しているものがある。そのひとつが、工場萌え、である。

工場のみならず、団地、ダム、廃墟、ジャンクションなどというものに対して強い興味を示す人々は、自らの感情を表現して「萌え」という語を用いるのである。

アニメヲタクがアニメのキャラクターに執着する様にたとえて、工場などの構造物に執着する姿を自虐的に表現しているのだ、と見る向きもあろう。しかし、表層的な部分において工場萌えとアニキャラ萌えでは相違点が多すぎ、自虐や揶揄としての表現としては、あまりにわかりにくい。

自虐や揶揄でないとしたら、なぜ工場に対して萌えという語をもちいるのか。ここは、素直に工場萌えとアニキャラ萌えの指し示すそれぞれの感情に共通点を探るべきではないかと私は考える。このアイディアは、私に萌えの再定義を迫るものであり、世に受け入れられるか一抹の不安を覚えずにはいられない。その定義とは、以下の通りである。

”萌え”とは、自らの妄想の中にあった概念に非常に近い対象を、見たり聞いたりしたときに、その一致する度合いに対して沸き上がる肯定的感情である。

つまり、萌えの源泉は「妄想」である。いわゆるリア充と呼ばれる人々がリアルを充実させるために使う時間を、ヲタクは妄想に費やす。長い年月をかけて築かれた妄想世界の中には、さまざまな人物が住み、街並みまでもが形成される。妄想がその深度を増すごとに、ディテールを備えてくるその世界は、脳内のみに存在し、決して外界にはたらきかけることはない。

しかし、外界の事物は、時にこの妄想世界の事象に非常に近い性状を示す。その際に発生する驚き、喜びの気持ちに名を与えたのが”萌え”なのだと、私は主張したい。

萌えの対象となるものは、アニメやマンガ、ゲームなどが圧倒的多数であるのは当然である。これらは、妄想にできるだけ近い姿となるよう、モデリングされているのだから。これらは現実ではない。しかし、妄想と同じものが、自分の脳内以外に存在することは大きな驚きである。この驚きは、萌えという感情の中に大きな位置を占めると考えられる。

妄想の対象は多くの場合異性であることから、萌えが恋愛感情と混同される場面は少なくない。しかし、妄想の対象は何も異性に限ったことではない。古びた異国の街並み。奇態な生物。たとえば、義侠心あふれるオヤジとともに苦難を乗り越える自分を妄想する人は、目の前に思い描いたままの義侠心をもったオヤジが現れたときに、萌えを感じる。それは同性・異性の如何に全く関わりのない感情である。

このような定義の上に立ったとき、「工場萌え」という言葉に対する疑問は解消する。工場萌えをする人々は、その工場に極めて近い風景を妄想していたに違いないのだ。

妄想は脳内で練り上げられるものであるが、外界の事物から多大な影響を受けている。見たアニメ・映画、読んだマンガ・小説、聴いた音楽、プレイしたゲーム。自分の幼い頃の思い出もまた、例外ではない。

では、なぜ人は工場に、団地に、ダムに、廃墟に、ジャンクションに萌えを感じるのか。長くなったので、次のエントリーに譲りたい。