他者に心があるという信仰について

前回のエントリー、書いたときには自信満々だったのに、今は自分が何を言おうとしていたのかわからなくなってきた。ただ、書いたときに自信満々になる程度の真実は含まれていたと思うので、よく思い出してみることにする。

ここで科学と呼んでいるのはいわゆる自然科学です。自然という言葉は、人工物を含まないものと誤解されるおそれがあるので、自然科学が対象としているものを自然ではなく世界と呼ぼうと思う。これは、哲学と言葉を揃えたいから。

数学を自然科学の範疇に入れるべきか否かについては、Wikipediaの「自然科学」の項に私とほぼ同意見の記述があるので詳しい説明はは省略しちゃうけど、数学はこの説明において自然科学には入れない。数学は世界がなくても存在できるから。

さて、科学の正しさを保証しているのは、「実験と観察」なわけだよね。で、この実験と観察は誰がするのかというと、誰でもいい。自分でもいいし、他者でもいい。誰がいつやっても、同じ結果が得られることが、科学理論の正しさを保証している。実験と観察されるのは、世界。

でもさ、この実験と観察をしているのが自分だとすると、どうだろう。自分が実験と観察を行った結果、何か理論が得られちゃったら、それは自分にとってはかけがえのない真実なわけだよ。たとえば、ヒマラヤにはイエティがいる、とか。自分が見ちゃったんだったらしょうがないよね。

でもそれを科学というからには、他の人にも正しさを認めてもらわなければならない。イエティを捕まえてきて、他の人に見せてあげて、ああ、ヒマラヤにはイエティがいるんだね、と言ってもらわなければいけないよね。

でも、他の人に正しいと認めてもらうことって、そんなに大事なことだろうか。

問題がイエティの存在であれば、そりゃ他の人に認めてもらうことは重要かもしれない。でも、哲学的、倫理的な問題になると、そこに他の人が出てくるのはちょっと違和感があるよね。哲学というと、デカルトの「我思う故に我有り」だけど、ここで出てくるのは自分と世界とであって、他者は世界の側に含まれてしまう。自分以外の他者に正しさの保証を委ねるなんて、していいものだろうか。

哲学であれば、未知として扱うべき他者が、科学では既知であるわけ。自分と同じように意志を持って、自分と同じように世界を認識していているというのが、自明であるとされている。

そんなの、哲学者からしたらおいおい、ってなもんのはずなんだよ。哲学者ってのはさ、自動音声で「ワタシニハココロガアリマス」っていうロボットに、心がない、ということを証明することが出来ない、って悩んでる人たちなんだよ?

でも、自分以外に心、意志を持った者がいない、なんてのは寂しすぎる考え方だよね。だから、他者に心があることを信じたい。それは、祈りのようなものなんだ。信仰だよ。

で、科学の話に戻ろう。科学の正しさを保証するのは、実験と観察。ただ、それを行うのが自分だけだったら、これは夢ではないのか?という疑いが常につきまとう。自分と世界との二項対立の関係においては、正しいという概念すら生まれ得ないのだ。

宗教と科学と疑似科学とニセ科学について - よそ行きの妄想

科学的な観察を試みたところで、そこから展開される無限の後退に対して、結局どこかの段階で信仰によって終止符をうたねばならない。

そう、どこで終止符を打つのか。その落としどころとして、「他者が存在し、自分と同じ認識能力をもっていること」というものを思いついたんだな。

うーん。もうちょっと論理的に思考してた気がするんだが・・・。