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気持ち悪いのは映っているもののほうなんじゃないの?

Googleストリートビューに対する拒否反応が盛り上がってますね。

Google の中の人への手紙 [日本のストリートビューが気持ち悪いと思うワケ] - higuchi.com blog
上記エントリではこのように主張されています。

日本の都市部の生活道路をストリートビューから外してもらえませんか

Googleの中の人は必ずやこう返すはずです。
「じゃあ、どこまでが生活道路なの?」

建築基準法第42〜43条では、都市部においては建物の敷地は、原則として、幅4メートル以上の道路に2メートル以上にわたって、接しなければならないことになっています。この道路には私道も含まれているだとか、既存不適格だとか、特例だとかはありますが、原則として、この「建築基準法上の道路」から全ての建築物が撮影可能なはずです。それよりも細い道にわざわざ入ってくると言うことは、「裏から」建物を撮ると言うことに他なりません。ストリートビューに目的と呼べる物はおそらくないのでしょうが、少なくとも建物の位置、特徴、アクセスは上記の建築基準法上の道路からで十分把握できます。ですから、それ以上の手段をとるというの
であれば、はっきりと目的を説明し、住人の同意を得ることが必要であると私は思います。

>>日本の都市部の建築基準法上の道路(私道を除く)以外をストリートビューから外してもらえませんか<<

樋口氏の主張を言い換えていたら、ひどく回りくどくなってしまいました。しかしその上、この主張が通ったところで、ストリートビューの気持ち悪さは解消できないと思うのです。現在の日本には、幅4メートル以上もある表の道路を生活空間として利用しているケースのなんと多いことか。まさに生活道路ですが、Wikipediaでは

生活道路とは、その地域に生活する人が、住宅などから主要な道路に出るまでに利用する道のこと。都市部では路地、農村部では農道とも呼ばれ(以下略)

と表現しています。しかし、幅4メートルの道路を路地と呼ぶのはいささか強引と言わざるを得ません。

路地空間を生活の場として利用することは、樋口氏の言うように日本の文化と言って差し支えないでしょう。しかし、路地裏という言葉が指し示すように、その文化が培われた例えば長屋、例えば共同の井戸といったものは、通りに面した大家の母屋の裏にあって、決して表に出ることはありません。本来、「ハレ」と「ケ」を明確に区別するはずの日本文化と、表にプライバシーがあふれ出してきてしまっている現在の日本の都市空間のそぐわない感じ。原因を強引に言いきってしまえば、路地裏文化が脈々と息付いている中に、先述の建築基準法都市計画法といった近代法を無理矢理に導入した歪みが形となって表れていると言えるのではないでしょうか。

路地が4メートルまで広げられてしまい、思いがけず表になり、延焼防止と土地所有の明確化のために設けられたブロック塀によって、裏側は閉じられる。防災、衛生、治安、交通、経済といった近代的命題への直截的な対処は、ことごとくそれまでの生活文化と衝突し、明快な答えを見出せぬまま残ってしまっている。それが現代の日本の都市の姿です。我々日本人は、その中を歩くとき、自然に「ここは通り」「ここは路地といった見立てを行うことにより、近代の利便性と日本文化を併存させようとしますが、それはなかなかに高度な情報処理であって、歩く早さなら処理可能でも、車の速さ、ましてやネット上でピンポイントにその地点に立つような中では
、とても対処しきれるものではありません。

Googleストリートビューは、こうしたもやもやとした状況を、非常にドライな形で提示しているため、我々としては気持ち悪いと感じてしまいます。しかし、日本の都市を近代化してきたのは他ならぬ私たち日本人であり、ストリートビューを黒船よろしく追い払おうとしたりしても、問題から文字通り目をそらすだけの結果しか生みません。昔、路地だった場所が今は表通りになり、長屋だった場所は個々に表と裏を両方持たなければならなくなってしまったのです。それを事実として受け止め、未来の建築が道路に対してどういう顔を見せていくべきなのか、また路地裏文化をどこでどのようにして継承していくのかを考えるのは、私たちであってGoogleではありません。

Googleストリートビューに映る日本の街並みを、気持ち悪くないものにすること。しかもそこに日本文化を反映させていくこと。私たちに課せられた課題は、なかなかおもしろいものだと思うのは、私だけでしょうか。