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ハルヒのセカイの終わりとハードボイルドワンダーランド

小説涼宮ハルヒの続刊の発売が延期になってから、どれほどの月日が流れただろうか。もう、続きは出ないのではないか、そう感じているのは私だけではないだろう。

セカイ系作品は、そのセカイを終焉に導くことによってしか、完結することはできない。通常のセカイ系においては読者(鑑賞者)と作者、主人公が三位一体となってセカイの軸をなす現象学的構図を取る。セカイはみんな僕だけなのである。ところが、ハルヒにおけるセカイは、ハルヒを軸にしているように見える、セカイとして軸がブレていて、ズレたセカイで今日もおはよう、なのである。

ただし、読者、作者、キョンの三位一体となった軸もまた明確であるので(キョン以外の視点で進行する部分が作中に全くない)、このズレたセカイの中でも、ハルヒとは別の軸として機能し続ける。キョンのために「異世界人」という席を空けておくことによって、このようなセカイの構図を表現している、ということについては以前に書いた。ここまでは作者の意図通りなのだろうと思う。

このセカイを収束させるためには、ハルヒとキョンという2軸が、直交するなり平行するなり重なり合うなり、その位置関係を明確にすることが必要だ。

しかし、ハルヒはマルチメディア進行されることになる。視点が明確である小説とは違い、アニメではキョンにキャラクター、顔が与えられ、画面の中に映り込む。ナレーションの役割を与えて可能な限り小説のセカイに手を加えないようにしてはいるものの、アニメはじめ小説以外のメディアから入った鑑賞者には、キョンとハルヒの2軸を読みとるのは困難であるし、またそのような構図が読みとれなくとも十分に楽しめる。

ある限られた界隈においてではあるが、共通言語と言ってよいほどに普及したハルヒのキャラクターは、勝手に歩き出す、といった言葉では表現しきれない程に、らき☆すたなどの他作品のキャラクターはおろか、やる夫なんかとまで共演しているが、これに違和感を覚える者はもはや皆無であろう。その中に、キョンは登場しないことの方が多く、ましてや語り手の役割を当てられることなど滅多にない。

こうした状況の変化に対して、作者も無視を決め込んでいた訳ではない。すでに2軸だけで成り立たなくなったセカイを収束させるために、作中でセカイを分裂させることでカオス化させてしまおう、という力業を見せようとしたところで筆が止まってしまった。作者はその勢いで一気に完結してしまおうとしたのかもしれないが、書いている途中にもネットの中でハルヒのセカイは膨張を続けた。作者というまとまった人格を越えて暴走するネットが生み出すカオスは、作者の筆を追い越してしまったのではないだろうか。分裂したキョンと、キョン子が重なってしまったとしても不思議はない。

こうした、読者側の暴走に振り回された作品はハルヒだけに限らないものの、その規模とスピードに関しては、これまでのあらゆるクリエーターが体験したものを凌駕するものであろう。ハルヒという作品は、そのキャラクターのみならず、素晴らしく練り上げられたセカイを提供してくれた。そのセカイを閉じるという仕事は、もはや作者一人に委ねられたものではなく、またその時期も自然に訪れるのではなかろうか。

作者にはそのときまで、ハルヒのセカイにのみ囚われることなく、新たな創作に力を傾けてもらいたい、そう願うのである。