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科学という名の宗教と、その教条(ドグマ)について

雑感


科学は、ひとつの宗教である。


と、いうとかなりの抵抗が予想される。しかし、宗教といっても多種多様だ。一神教、多神教、儀式やタブーを課するもの、生活習慣に溶け込んでしまっていて宗教とは意識されていないものまで、さまざまなあり方が考えられるし、またさまざまなあり方で実在している。

科学と宗教は、どこが違うのか。例えばものが燃えるという現象。科学は

燃焼(ねんしょう)とは、発熱を伴う激しい物質の化学反応のこと。発光現象を伴うことも多い。ただし、一般的には可燃物質と酸素の化合の内、発熱と発光を伴うものを指す。
  (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

と説明するが、これを宗教は、神の力であったり、功徳の成果であったりという説明をするのだろう。

しかし、こういった説明がなくとも、ものは燃えるし、火の付け方を知っていればものを燃やすこともできる。パンが炭水化物からできていることを知らなくても、いや、それが小麦からできていることすら知らなくとも、人はおなかが空いたらパンを食べて生きる。それが神の恵みであるという認識も必要ないのは、もちろんのことだ。

日常を生きるに当たって、科学も宗教もともに必要不可欠なものとは言えない。ただ、なぜものは燃えるのか、なぜ人は何も食べないと死んでしまうのか、それがわからないと不安だから、何らかの理由が必要となっただけのことだ。

不測の事態においてもろくも崩れ落ちてしまうような、付け焼き刃の理由付けでは、不安を拭うことはできない。長い年月の中で、その理由は補強され、体系づけられ、同時に元の日常の世界からは遠く離れていった。原子やクオークといった存在を、パンから想像することは、もはや神と同じくらい遠い。

いや、主観に頼る宗教に対して、科学は客観性を保っている。多くの人はそう反論するだろう。客観性こそが、科学のドグマだ。誰の目から見ても正しいこと。科学はその積み重ねによって、現在の姿を呈している。

確かに、科学は客観性を保つために最大限の努力を惜しまない。追試の可能性、分析の手法。誰がやっても、誰が見ても同じ結果が導き出されなければ、科学とは言えないのだ。他者の存在。それが、いかに科学にとって大きなものであるか。

しかし、しかしである。
あなたが今見ている、メスシリンダーの目盛りの読み。それは隣の人と同じであろうか。
何をバカなことを、そんなものは誤差だ。誤差の判定の方法もしっかり考慮している、そうあなたは答えるだろう。
フェノールフタレイン液の色が赤く変わる。あなたの見ている赤は、隣の人の見ている赤と同じか?
しつこいなあ、スペクトル分析にでもかけようか?

では質問を変えよう。培養液の中に、脳が、ひとつ、浮かんでいる。その脳には、電極がさしてある。これが実験をしている(夢を見ている)、今のあなたの姿だ。

と、いう可能性までも考慮したか?

極端な例で申し訳ない。ただ、科学は最終的にひとつの「信仰」に基づいている、ということをわかって欲しかっただけだ。その「信仰」とは、

私は、他者と、同じものを見て(聞いて 嗅いで 味わって 感じて を含めて代表してこう表す。以下同じ。)いる

という一文である。

この一文を、科学は決して自らの理論を用いて証明することができない。なぜなら「私が見ている」という、「主観」を含んでいるが故に、科学の金科玉条であるところの客観性が崩れてしまうからだ。

したがって、科学はこの一文を取りあえず(括弧)に入れて、「信じる」ことにしている。科学という名の宗教が課する、静かでささやかな、しかし切実な祈りである。

私は、これによって、科学が無力であるとか、旧来の宗教に劣るとかいったことが言いたいわけでは決してない。ただ、この「祈り」を忘れた不信心者が、科学の力を盲信してしまうことをおそれているのである。

参考
http://d.hatena.ne.jp/muffdiving/20061228/1167232382
NC-15 / ニセ科学をめぐる論争で思ったこと