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「フィクションである」とは誰に対しての宣言か

雑感

コメント、リンク、ブックマークありがとうございます。


お礼ついでに、下記リンクで触れられていた問題について、私も考えてみました。

『朝比奈ミクルの大冒険』こそがハルヒの世界にとっての現実認識(フィクション)
http://blog.goo.ne.jp/kamimagi/e/197eafe40f285b372ab2f2dd82e6258b


ハルヒが「超監督」をつとめた映画、『朝比奈ミクルの大冒険』。エンドロールでハルヒは、「この映画はフィクションだ。」と言わされる。これには、どんな意味があるのか。

映画の中の世界では、監督が神である。ただし、人間である映画監督が神となるということは、限られた時間、限られた大きさの、2次元のスクリーンの中で、気の遠くなるような労力を対価として、初めて可能になる。

さて、ハルヒの場合、日常を過ごしている世界において、すでに神としての能力を持っているのだから、わざわざ、制限付きでしんどい映画を作る必要はない、はずである。もちろん、これはハルヒが神としての能力を持っていると知っている者からみた意見であって、そのことに無自覚であるハルヒのあずかり知らぬところである。

ハルヒの作った映画の世界は、ハルヒが日常を過ごす世界に完全に内包される。したがって、映画の世界が、ハルヒの日常世界と同じく、ハルヒの思い通りになることは自明である*1。ただし、ハルヒは自らの神としての能力に無自覚であるから、自分の日常世界に対して、「命令」を下すことはない。せいぜい、希望や願望止まりである。

しかし、映画の世界においては、ハルヒは自らが神であることを自覚している。したがって、ハルヒは、この映画の中の世界に向かって命令を下す。ハルヒ以外の映画監督でもそうするであろうから、ハルヒが悪いというわけじゃない。だが、なぜか、世界はハルヒの命令を、映画の中の世界ではなく、ハルヒの住む日常世界全体への命令であると、取り違える。


どうしてだろう?


確かに、ハルヒが熱くなってしまい、(ハルヒにとっての)現実と、映画の中の世界をごっちゃにしてしまう場面もあった。だから、映画の世界に対しての命令が、日常世界に向かってしまったのだ。と、私もそう思った。

しかし、エンドロールで無理矢理、「これはフィクションだ」と言わされているハルヒは怒っている。


映画がフィクションなことくらい、わかってるわよ!


そう、ハルヒはわかっているのだ。そこに混乱がないのであれば、映画の中の世界に対する命令は、ハルヒの日常の世界には影響を及ぼさないはずだ。この程度、熱くなったくらいでおかしなことが起こるのであれば、ハルヒの日常は退屈とは無縁のものであるはずだ。私たちは、あまり「世界がこうであって欲しい」などという思いを抱くことはない。思ったところでしようがないからだ。ハルヒも、その点では普通の女の子だから、宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたらいいな、くらいのことしか思わないわけだ。

では、なぜ今回に限って、世界はハルヒの命令を取り違えたのか?





それは、ハルヒが「超監督」だから。



超監督ってのは、監督を超える存在なんだろ?監督の命令は映画の中の世界にしか及ばなくても、「超監督」の命令は、どこまでも響きわたるさ。


と、世界が誤解したために起きた一連の事件。ハルヒの映画の世界が、ハルヒの日常の世界にあまりにも似ていたから起きた誤解でもあるけど、似ているのは当たり前。どちらもハルヒの願望を体現した世界なのだから。



誤解によって実現された命令をキャンセルさせるために、キョンはハルヒに「この映画はフィクションだ。」と宣言させる必要があったのだ。


世界に対して。

*1:思い通りになっても映画がつまらないのは、ハルヒの想像力の問題であって、神としての能力の問題ではない。この展を、明確に書き分けているところが、この作者のすごいところだ。