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涼宮ハルヒの考察/誰が”神”であるのか

雑感


涼宮ハルヒ」シリーズに関する「超」ネタバレを含みます。


モノーキー/ハルヒ考察追加。〜朝比奈みくるがおしえてくれたこと〜 | キョンとハルヒが神である理由。
http://blog.goo.ne.jp/kamimagi/e/c2dce6b982d161c099f82b40e1be216a

ハルヒ=読み手
キョン=語り手
そして、二人ともが”神”であるとの主張

二人ともが”神”であるという主張に対しては異論のないところだが、ハルヒを読み手と捉えるのにはちょっと無理があると思うので、以下にその理由を述べたいと思う。


結論から言ってしまえば、”キョン=読み手”という、素直な読み方で差し支えない、というのが私の主張となる。

「ただの人間には興味ありません。この中に宇宙人、未来人、異世界人、超能力者がいたら、あたしのところに来なさい。以上」

有名なハルヒの台詞である。宇宙人=長門、未来人=みくる、超能力者=古泉であるのだが、異世界人のみは未登場、ということになっている。「異世界人」という言葉は、第1作の冒頭であるがために世界観が固まっておらず、ノイズとして入ってしまった、というわけでは決してない。ということは、キョンがたびたび、異世界人が見つかっていないことに触れていることでもわかる。”異世界人=鶴屋さん”という方向にミスリードしようとする作者の意図も見え隠れするが、鶴屋さんSOS団に正式に入る可能性は今後も薄いと考えられる上に、”異世界人=鶴屋さん”では、どうしても後付け設定の感が否めず、興ざめである。


ここまで書けば私の主張がおわかりかと思うが、”異世界人=キョン”とするのが、もっとも自然な解釈であろう。これは、「涼宮ハルヒ」シリーズにおける最大のネタバレである。が故に、最後まで作中では最後まで語られないと思われる。


では、異世界とはどこか。
キョン=読み手
と仮定した場合、
キョン=異世界人を代入して、
異世界=読み手の世界、すなわち私たちが今いる、本の(あるいはアニメの)外の世界、すなわち現実世界そのものである。

つまり、キョン、すなわち読み手である私たちから見れば、ハルヒたちのいる世界のほうが異世界人であることに、まさか異論はあるまい。その世界には、宇宙人も未来人も超能力者もいて、ハルヒが”神”であるのだ。何の不整合も生じない。

翻って、現実世界における”神”は誰であるのか、と考えさせるところに、作者のねらいがある。もちろん、それに対する作者の想定解は読者自身、「私」である。これは20世紀における哲学上の最大の発見、実存主義現象学を踏襲したものだ。

長門のキャラを見るまでもなく、「涼宮ハルヒ」シリーズは、新世紀エヴァンゲリオンの影響を色濃く受けている。エヴァに含まれる要素を分解し、緻密に再構成することによって成り立っているといってもよいだろう。再構成の過程において、ある反省の元に振り分けられたのが、キョンとハルヒの役割だと思われる。

エヴァにおいては、碇シンジひとりに多くの役割を持たせすぎた感がある。世界の中心に”アイ=私”を置く、という考え方、それによって現実の世界を”私”が変えうるのだ、というテーマであったにも関わらず、正反対の意味に取られてしまいかねない危険性をはらんでしまった。すなわち、虚構に過ぎない世界でも、”私”が強く望めば、現実と等価値のものになりうる、と。それは、むしろカヲル君の生き方だろう。

ハルヒはあくまでも「エヴァ以後」の作品である。主人公が、作中で「現実」と言えば、それは作中の世界を指してしまい、混乱を生じてしまう。その反省から、「ハルヒ」においては、読み手=語り手=キョンをはっきりと、現実世界(つまり作中から見れば「異世界」)から送ることで、同様の混乱を回避しているのである。

このような理由からキョンとハルヒが二人とも”神”であると言える。ただし、二人は別々の世界の神であるのだ。それはとても悲しいことのように思えるが、現実においても人は、個々の世界の”神”として生きている。人と人とのコミュニケーションは、いわば”神”と”神”、世界と世界のぶつかりあいであるのだ。キョンとハルヒのキスが表現したものは、かように壮大なものであったのだ、と私は考える。