2年ほど前のこと。実家に帰ると台所に変なものがある。お皿にパンの切れ端が載せてあって、横に何やら文字の書いた紙が添えてあるのだ。
「ありがとう」と「ばかやろう」
なんじゃこりゃ?と、そのときは思ったが、今このタイミングで、この文章を読んでいる方はもうおわかりかと思う。
水からの伝言 だ。
あろうことか、マイマザーがはまってしまったのだ。あの罠に。
ところが、0.2秒でトンデモと断定できてしまう内容のこの本を相手に、意外な苦戦を強いられる。何せ、台所のパンは、「ありがとう」の方は真っ白、「ばかやろう」のほうはカビで真っ黒なのだ。
「ほらね。」
と、なぜか得意満面の母だ。ありがとうという言葉の波動?かなんかによって、カビの発生を抑えることができるらしい。感謝の言葉で、生き物を殺していいのか?などと思っていてもしょうがない。急いでネットを検索して、(「水からの伝言」「トンデモ」でググったのはおぼえてる。)著者の例の怪しげな団体を探り当ててなかったら、勝負はもっと長引いていたかもしれない。
音極道茶室:やればいいじゃん反証実験
http://www.virtual-pop.com/tearoom/archives/000173.html
ネット上の議論は反証実験の是非に焦点が絞られてきた感がある。カール・ポパーだね。
境界設定問題においてポパーは反証可能性を持たない理論は科学的ではないと主張した(反証主義)。これは命題自体が反証例を持たない場合もあるし、その理論の支持者が反証を無視ないしアドホックに回避するというやりかたをとることで実質的に反証できなくなることもある。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ポパーの論が正しいことを前提に進めちゃうと、「反証可能性を持たない理論は科学的ではない」の対偶は、「科学的であるならば、反証可能性を持つ」だよね。「反証可能性を持つならば科学的である」ではない。ここの点で混乱してる人もいるみたい。だから、反証実験はしていい、と俺は思う。(否定的な結果が出たら、きっとアドホックな反論をしてくるだろうけど。)
でもね、みんなそれをやりたがらないのは、「野暮」だからなんだと思う。水が答えを知っている、というポジティブな願いを、時間と労力をかけて潰しにいったって、軽蔑の目で見られるだけなんだ。それが願いである以上、「科学的でない」、と言われたところで、価値を減ずるものではないし。
ただ、俺は言いたい。「ありがとう」という言葉は、人の心から人の心へと伝えるものだ。その価値を無機物や菌類に保証してもらおうという考えは、もっと野暮なことではないのか、と。