悲しみ緩和システム

父が死んで、明日で1週間になる。


1ヶ月前から東京に住む私は、父危篤の知らせを聞いて新幹線に飛び乗ったが、ついにその間際には間に合わなかった。


「あとひと月くらい」といわれて様子を見に帰ったのは父の死の前日。俺の声に手を振ったのが最後、眠ったまま逝ってしまったそうだ。


新幹線に乗るのは、このひと月で何度目だろうか。通夜葬式をなんとか終えて、また東京に戻る途上でこの文章を書いている。




通夜や葬式といった儀式は、生きているもののためにするものだ、と聞いたことがあるが、まさにその通りだ。


私や母、家族をはじめとする放心状態の人間たちを、儀式という名のシステムは、ベルトコンベア上に載せて容赦なく運んでいく。時間としてはたった2日、3日という客観的には短いものだが、その先は確実に「日常」まで届く長さに設定されている。


その後は香典の処理や手続きに忙殺され、俗世に悪態をつきながら、日常の感覚を取り戻していけるよう、プログラムされているのだ。ひととおりの事務処理を済ませてほっとしたときに、きっと喪失感が蘇ってくるのだろう。そのタイミングは、49日(うちは35日だが)の法要の頃だろうか。また親戚が集まる。うまくできているものだ。


悲しみや後悔に暮れることが人として正しいのかもしれない。しかし、それを「世間」がゆるやかな強制のもと、和らげてくれる。「お気を落とされませんよう」「お疲れでませんよう」という言葉で縛られることにより、軽くなるものがある。


もし私と同じように親の葬式を出さねばならない境遇におかれる人がいるならば、一見疎ましく思える昔ながらの「悲しみ緩和システム」を厭わずに受け入れてみることをおすすめする。それだけの価値は実感している。