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本を読むとき映像を思い浮かべるか云々

読書

文庫版 今昔続百鬼 雲 〈多々良先生行状記〉 (講談社文庫)

文庫版 今昔続百鬼 雲 〈多々良先生行状記〉 (講談社文庫)


京極夏彦「今昔続百鬼 雲」文庫版 読了。タイトル区別付きにくいな。多々良先生行状記、でいいじゃん。

本を読むのはいつも通勤電車の中なんだけど、これだけはカバンの中に入れるのも億劫なほど重たいので、休みのうちに、と思ってました。

ちなみに私は文庫派。整理整頓が苦手なので、サイズがまちまちな単行本やムック本買ってきて、「あとで整理して本棚にいれよう。」なんて思ってそこらへんに置きだしたら、あっという間に部屋が足の踏み場もなくなる。その点、文庫はとりあえず本棚に放り込めば、スペースの無駄もなくおさまる。その上軽い。と、言いたかったんだけど・・・そうか、京極夏彦の話だ。重いもんな、これ。

ちょっと前に、本を読むとき、映像を思い浮かべるか否かって議論があった。私は思い浮かべる派であるわけなんだけど、京極夏彦のほど、映像を思い浮かべやすい文章を書く人もいない。思い浮かべやすいから、早く読める。早く読めるから、分厚くても大丈夫。ということなんだろうね。本が分厚いのと、映像を思い浮かべやすいのと、どちらが先だったのかはわからないけど、いずれにしても自覚的にやってるわけだ。

で、どうすれば映像を思い浮かべやすい文章になるかと言えば、

  • 一人称人物の無個性
  • それ以外の登場人物の個性

両者のギャップが大きければ大きいほど、映像が思い浮かべやすく、かつ物語に入り込みやすくなるんだろうと思う。この本で言えば、多々良センセイの容貌が異様であるために、読む側はよりリアルにその姿を思い浮かべてしまう。ところが、その映像と同じ画面に出てこないといけない「俺」については、ほとんど描写がない。いや、なくはないんだけど、どこかでみたような顔だと言われるとか、名前を覚えてもらえないとか、要するに、特徴がないという描写だけは、かなりつぶさになされる。異形の者の容貌と同じくらいつぶさに。

いきおい、頭の中に出てくる「俺」の映像はボンヤリ、一方それ以外の部分は、やたらハッキリクッキリしてくる。そして、その不自然な映像を不快に思う読者側は、ボンヤリしたヘノヘノモヘジの顔の中に、ついつい自分の顔を当てはめさせられてしまい、いつの間にか物語の中に引きずり込まれる、という手法。


京極夏彦はその手法の第一人者といっていいのだろうけど、あまりにハッキリクッキリ周りを描きすぎるせいで、かえって映画化の話を難しくしちゃってる。「姑獲鳥の夏」がどうとかは言わないけど、彼の取ってる作戦上、どんなにうまくやっても「イメージと違う」って言われちゃうのは、当然でしょ。作者本人が、いかに映像化を望んでいたとしても。

まあ、そんなジレンマを抱えて書いてるわけだから、「妖怪大戦争」に嬉しそうに出演しちゃうくらいのことは許してあげないといけないんだろうね。