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住宅の所有者としての「家族法人」という提案

俺の考えたかっこいい社会制度シリーズ最新作。たぶん、誰かが先におんなじこと考えてるんだろうけど、それがわかると書く気がなくなるので、敢えてググらない。

200年住宅とかいう頭の悪そうな提案が出てきたのは福田内閣のときだったと思いますが、200年とは言わないまでも、住宅の寿命を延ばそうというか、延びちゃってるというか、そういう傾向はこの寒暖乾湿の差の激しい日本においても明らかであるように思います。

しかしながら、その住宅の所有者であるところの人間の寿命というものは、どんどん延びつつある住宅のそれと比べると非常に短い。死にかけのおじいちゃんを三杯酢に漬けると再生するという話もデマだったようです。30歳で住宅を取得しても、人間の寿命を80年としたら実際に住めるのは50年間。200年住宅の残り150年間はほかの人間が住むという計算になります。

50年しか住まないことが明らかである人間が所有する住宅。これを200年使っていくことができるように維持管理していこうというモチベーションはいったいどこから沸いてくるのか(いや、沸いてこない(反語))。持ち家だ賃貸だと論争する前に、寿命の短い人間という存在は、住宅の所有者としてふさわしいのかという疑問が生じます。

そこで考えられるのは、永遠の命を持ち絶対でありかつ神聖な存在であるルシフェル様以外にはありえないという厨二病的意見をさしおくと、人間と同じようなはたらきをしながら、その構成員が入れ替わることにより継続させることができる、法人というもの。これが所有者であるのがふさわしかろうというところに落ち着くんではないかと。

そもそも、個人が住宅を所有するというようなことになったのは、「民法出でて忠孝滅ぶ」と言われたあの頃以降のことだったのだ・・・と遠い目で思い起こしてみるなどしてみたところで筆者が昭和生まれである以上なんの意味もないことではありますが、家長制度とかイエ制度とか言われたものがあったころは、たぶん住宅の所有者というのは個人ではなく、「イエ」だったと考えられるんじゃないかとまあ、何の根拠もなく思うわけであります。で、その「イエ」というものは、家長という人間、法人と区別して言うなら自然人ではなく、法人であったのではないかと。

「イエ」が住宅を所有すると言う、いささかトートロジーじみた仮説が成立するのかどうかは別にしても、自然人よりも長い寿命を持つ住宅の所有、維持管理の主体として、会社とかNPOとかいったものよりも、もうちょっとカジュアルな法人というものが考えられないだろうかというのが、脱線気味なこのエントリの主旨であります。

もちろん、そのために封建的なイエ制度や家長制度を復活させるというのはあまりにもアナクロです。個人が、個人の意志でもって形成する法人であるべきだとは思いますが、まあ上で述べたような狙いのものですから、デフォルトでは「家族」であってよいのでは、と。だから、「家族法人」ね。

今の制度だと、住宅の所有者である人間が死ぬと、相続税が発生して、相続税を払うために住宅を売り払うと言うような馬鹿馬鹿しい事態が稀に発生するわけですが、「家族法人」が所有者であるならば、代表者の交代というようなことはあるかもしれないけれど、「相続」が起こるわけではないので、家族はそこに住み続けられる。権利が侵されない。

家族法人」を解散して、所有を個人や別の「家族法人」に移すということも可能だけれど、その場合「家族法人」は死んだという風に受け取れるので、その譲渡には相続税に相当する税を課す。というようなことをすれば、簡単に家族法人を解散したり、また組んだりというようなトリッキーな動きを抑制できるような気がする。

その「家族法人」の中で、育児や介護といった社会に負担をかけるような労務を負担することができたら、その「家族法人」に対して、たとえば法人税と住民税の中間的な税があるとして、それが軽減されるようなインセンティブを与える。みたいなことまでいくと行き過ぎのような気がするけど、現状崩壊しつつある家族を、自由意志の元に再構成するとかそういうなんかかっこいい感じにしたらええんでないの。

そういうの中に、たとえばシェアハウスとか、同性愛カップルとか、そういう新しい社会的グループみたいなもんが取り込めるような、そういう何となく漠っとしたものを提案することで、簡単ながら私からのご挨拶とさせていただきます。

乗降客数世界最大の駅を使いこなせる人々が大雪で買占めをするという矛盾から見える、都市と人とのビジネスライクな関係

花粉症で朦朧とする意識の中、最近読んだ記事やブログを適当につまみ食い。

[徳力]世界の駅の乗降客数ランキングで日本が上位を独占するほどの人数を毎日安定してさばけているのは、鉄道会社だけの手柄では無いという視点

確かに、日本の大都市の各駅が、これほど多くの乗降客数を捌くことができているのは、乗降客側の協力のおかげだと思う。毎日見知らぬおっさんと頬を寄せ合うようにしながら電車に詰め込まれて通勤しているのは、誰に頼まれたわけでもない。しかしその協力意識の源泉を、日本人のモラルなどといったところに求めてしまってよいのだろうか。

わたしは、都市とそこに住む人との関係は、もっとビジネスライクなものだと思っている。都市に住むことによる利益はなんなのか。それは、ある人にとっては高度な仕事と、それに対する高い報酬であるだろうし、また別の人にとっては、高い水準の教育であったりするだろう。一方で、その利益を得るために、都市に何をどこまで与えてもよいのか。満員電車の中で過ごす長い時間か、高額な家賃か。意識的であれ、無意識的であれ、都市に住む人々はその基準を自分の中で決め、それにしたがって都市から利益を得、都市に奉仕している。

【画像集】東京都民、たかが雪で食料品を買い占め始めるwww - NAVER まとめ

ところが、その関係は大雪や震災といった自然災害のもとでは崩壊する。メロンパンが欲しいと思ったそのオンタイムに、スーパーの棚には100円ちょっとでメロンパンが売られているという高度な物流システムは、都市から得られる利益のひとつであろうが、路面に積もった十数センチの雪の前にはその力を失ってしまう。都市の側から利害関係を打ち切ってくることが予測されると、人々は都市より先にその関係を破棄しにかかるのである。もし、新宿駅の世界最大の乗降数を支えているのがモラルだとしたら、その同じにモラルによって、限られた食料を分け合うということができるはずなのに、それは実現されないのである。


このところ、郊外と言うには通すぎる、通勤電車の終着駅に近いあたりにたくさんの物流センターが建設されていることに注目している。需要のあるところに需要のある分だけ、正確にリアルタイムに物を届ける技術が飛躍的に発達し、それにより集約可能になった物流拠点の建設が進められているのだと、そう解釈している。都会を取り囲むように建てられた物流センターの内側に入ってくる商品は、時間も量も高度にコントロールされるようになってきているのだろう。ひと昔前までは、スーパーマーケットといえばその床面積の30%以上がバックヤードとして、物品の蓄積に充てられてきたと思うが、昨今スーパーはどんどんコンビニ化し、バックヤードのない店舗が増えてきているという。これは物流の高度化と、物品の蓄積に充てる空間の利用効率が低いという都市側の要請の両面から進んできていることだと考える。

スーパー化するコンビニと、コンビニ化するスーパー (エコノミックニュース) - Yahoo!ニュース

経済的な観点から、物流の高度化はさらに進められていくだろう。大雪や震災といった自然災害の際には、物品は物流センターから都市の内側に入ってこなくなり、先に見たように都市と人々の関係は崩壊する。物流が高度化することにより、たとえば災害時にバックヤードに蓄積されていた物品を棚に出すといったような、物流の冗長性が失われていく。都市に住む人々が、そうした変化を敏感に感じ取っているとしたら、今後はより些細な出来事によって、「都市との契約破棄」に踏み切る人が多く出てくる可能性が危惧される。

モラルという面から見ると一見矛盾しているように見える、表題に掲げた問題。しかしながら、都市と人々との関係がよりビジネスライクになっていく中で、合理性から日常と非日常においては異なった行動をとるということが現実にありうるということだろう。都市と人との関係性において、合理的に選ばれる行動が、モラルに合致しているかどうか。それは、場面場面によっていろいろなケースが出てくるのであって、合理性とモラルの間に因果関係があるわけではないのだろう。

都市から多くの利益を得て、多くの奉仕をしている人ほど、都市との利害関係を強く意識しているのではないだろうか。都市から利益を得ていない人にとっては、都市への奉仕などというと滑稽かもしれない。それは、たとえば定年退職などで都市との利害関係を終了した人、親の世代から都市に住み、自らの決定でもって都市との関係を持ってはいない人など、都市の中でも多様な価値観があるのだと思う。日本の都市が進めていく方向が、より高度で、冗長性のないシステムを築いていくことなのか、あるいはそうでないのかはわからないが、世代、地域、その他いろいろな理由によって存在する、都市への意識の濃淡を、どのように取り込んでいくかが課題となるだろう。

ごちそうさんのように「疎開」のできない現代の都市について

今朝読んだこの記事について。ごちそうさんあまちゃんも、全く見てないんですけどね。

「ごちそうさん」で悠太郎の逮捕はなぜ?「爆弾は当たらない」などの宣伝で犠牲者を増やした歴史を直視(水島宏明) - 個人 - Yahoo!ニュース


「空襲は怖くない」、「逃げずに火を消せ」 という当時の政府の指示の妥当性というところがこの記事のミソなのでしょうが、個人的に、それより前に「うーん」と唸ってしまったのが以下の箇所。

主人公のめ以子(杏)の夫の悠太郎(東出昌大)は、大阪市の防火改修課の課長。戦時には、建物を「疎開」する作業の責任者だ。「疎開」とは、火災や空襲などでの損害を減らすために、都市に集中する建物や住民を分散すること。
悠太郎がかかわる「疎開」は、建物を減らすことだ。

空襲の際の延焼被害を少しでも減らすため、住宅街に空き地を設けるように邪魔な住宅を「引き倒す」のが彼の仕事だ。

疎開」と聞くと学童疎開を思い浮かべてしまって、「疎開」という言葉、疎という漢字と、開という漢字から成る単語の意味をちゃんと調べなかったのは、うっかりしたもんだなぁという反省しきりです。疎開というのは、「疎らに開く」、分散を意味するのは明らかだったのに。空襲によって火災が発生した際に、緩衝帯を設けて延焼を防ぐ。そちらの方が「疎開」の本来の意味にずっと近い。有力者であるか否かによって対応を変えてよいかという点は別にして、建物の「疎開」による防災という政府の施策自体は、現代から見ても間違っていたとは思えないのですよ。


さて、なぜ 「うーん」と唸ってしまったのかというところなのですが、この建物の「疎開」という政策、現代ではかなり実行が難しくなってしまっているよなあ、という点においてなのです。

空襲による被害が発生する可能性こそ、当時と比べたら格段に小さくなっている現代の日本の都市ではありますが、たとえば首都圏直下型地震が高い確率で、近いうちにくるといわれている中で、「疎開」という施策は決して過去の遺物ではないと思うのです。特に、木密地域と呼ばれる、木造建築物が密集している地域においては。

木密地域不燃化10年プロジェクト/東京都都市整備局

もっとも、上のリンクにもあるように、現代の技術において、空地にまでする必要はなく、耐火性の高い建築物への建替えの促進というものでもかまわないのかもしれません。しかしながら、現代では政府が強権をふるって個人の所有物たる建築物を空地にしたり、建替えさせたりということは、財産権の保護という観点から、非常に難しくなっているわけで、結果として上のリンクのような施策も、毎日電車の窓から眺める風景から推察するに、遅々として進んでいないものと思われます。

もちろん、自分の家がある日突然政府の気まぐれによって取り壊されるような社会が望ましいとは思いませんが、神戸の震災における長田区の状況などを思い出してみると、こと人命に関わることであるだけに、もう少し強制力をもってことにあたるべきではないかと思う次第です。財産権の保護に寄りすぎている現代のあり方と、「ごちそうさん」の時代のあり方の中間に、本来あるべき姿があるのではないかなあ、と思ったりするわけです。

「安心・安全、福祉、五輪で世界一」 舛添知事施政方針:朝日新聞デジタル


ごちそうさんの現在の舞台は大阪のようですが、東京の話をすると、先日の都知事選で、舛添知事は上のような施策を掲げて当選しました。しかし、杉並、世田谷、中野、練馬といった場所に、木密地域が多く分布しているのは安心、安全の観点から非常に問題が多いと感じるとともに、こうしたブランド価値の高い地域の道路インフラが非常に貧弱であり、利用効率が非常に悪いなかでは、世界一の都市を実現するのはほとんど不可能だろうと予測せざるを得ません。

疎開」という考え方と共通すると思うのですが、木密地域に広い道路を計画的に配し、通勤通学に便利な地域に、耐火建築物を主体とする良質な住宅を供給していくことが必要だと思うのですが、それには財産権をある程度において尊重した上で、ある程度強制力をもった施策が欠かせないと思うのです。

過去の過ちを反省することは非常に大切なことだとは思いますが、未来においてどうしていくかを考えていくことのほうが、私は大事なことだと思っていますよ、ということで、寝ます。

日本企業のガラパゴスっぷりを例示するのに高強度コンクリート技術はふさわしくない

今朝見かけた以下の記事に関して。

「日本企業がグローバル化できない本当の理由って何ですか?」:日経ビジネスオンライン

「私がよく使う例」として挙げられるものが、どうしてここまで事実と相違しているのか。たまたま話の枕に挙げた、高強度コンクリートという世間一般にはあまり馴染みのない技術を、たまたまタチの悪い件の黄色いコアラが目にしてしまった運のなさを、上記記事の筆者には嘆いてもらう他ない。

まず、

日本のゼネコンは、超高層建築向けに耐震性の高い高強度コンクリートを競って開発してきました。

という入りからして、高強度コンクリートを語る常套句から、大いに外れている。適当にググって出てくる各ゼネコンの高強度コンクリートの開発についての報告を見れば、「NewRC総プロ」という言葉が必ずと言っていいほどに文頭に現れているのがわかると思うのだが、これは当時の建設省主導で推進された、国家プロジェクトなのである。

各ゼネコンが、高強度コンクリートの開発において、「NewRC総プロ」をその起点と見ていることの証左として、以下の2点。
設計基準強度 150N/mm 2の 低収縮型超高強度コンクリート ... - 大成建設(PDF注意)
Fc150 N/mm2 超高強度コンクリートの開発 Development of ... - 西松建設(PDF注意)
NewRCについては、以下のページから報告書の執筆陣の所属を確認していただきたい。
建築研究報告/独立行政法人 建築研究所 -- Building Research Institute --


もちろん、現在は各ゼネコンの技術競争により、より高い強度のコンクリートの開発が進められているのであるけれど、国家プロジェクトによって口火を切られた技術が市場に受け入れられ、その需要を確認して始まった、高強度コンクリートの技術開発といういささか稀有な事例を、わざわざ「日本企業」について語ろうという記事における例として引くことの不自然さは感じてもらえるものと思う。

また、

国内では1990年代初頭にバブルがはじけて、それ以降は景気が悪化し、高層建築が建設されない時期が続きました。

については、新宿パークタワー東京オペラシティタワー新宿アイランドタワーあたりの竣工年を調べていただけばわかることなので詳しくは述べないが、現在から見ると、バブルの崩壊直後の建設業界というのは、バブル期が異常であったがために低迷したかのように思われるが、非常に活発だったと評価せざるを得ないものであり、結局のところ高層建築の建設は、バブルの崩壊と関係なく連綿と続いてきていることは明らかである。

次に、

海外では中国の上海やアラブ首長国連邦(UAE)のドバイなどで、超高層ビルがどんどん建設された。これらの建設工事は、高強度コンクリートを適用する格好の対象でしたが、実際には全く採用されませんでした。

であるが、以下の文献において、「Dubaiで使用されるコンクリートの強度はC60~80(設計基準強度60~80N/mm2)クラスを主流としている」とあるように、「全く採用されませんでした」というような記述は事実に反している。
Dubai における C100 コンクリートの適用性試験 - 大成建設(PDF注意)

さらに(だんだんめんどくさくなってきた)、

高強度コンクリートが所定の品質を発揮するためには、厳選された材料を絶妙な配合で混ぜるなど、精緻な施工管理が必要だったことが一因です。

とあるが、高強度コンクリートを実現しているのは、少なくとも日本においては、材料の配合比率の厳密さなどでは決してない。高強度コンクリートを製造する機械は、普通強度のコンクリートを製造するものと同じであり、同じ計量器を用いる以上、同じ程度の(JIS A5308にて規定されている程度の)計量誤差の発生は覚悟しなければならない。もちろん、100N/mm2級を超えるコンクリートの製造に際しては、骨材の厳選とか、シリカフュームなどのマイクロフィラーの選定というプロセスは入ってくるものの、それ以下の一般的な(というのも変だけれど)高強度コンクリートについては、普通コンクリートと同じ材料を用いて製造されることがほとんどである。

では、何が高強度コンクリートの実現をもたらしたかと言えば、これに関しては化学混和剤、特に高性能AE減水剤の製造技術の発達に触れないわけにはいかない。コンクリートの強度を上げるためには、水とセメントの比率を変える、つまり水を少なくして、セメントを多くすることが必要なわけであるが、想像していただければわかるとおり、これではネチョネチョゴテゴテのコンクリートになってしまい、実用は不可能である。そこで、水セメント比を小さくしても流動性を確保できる、高性能AE減水剤が必要になってくるのである。

ここで注目すべきは、フローリック、竹本油脂、花王といった高性能AE減水剤を開発・製造している国内メーカーと並んで、BASFやSikaといった、紛うことなきグローバル企業が名を連ねてくるところである。もちろん、高強度コンクリートの開発には、日本の大学、研究機関、ゼネコンの努力があったことは間違いない事実であるが、そういったノウハウについては、グローバルな化学企業の吸い上げが既に完了しているわけであり、もし、仮に、全世界的に高強度コンクリートの普及が不十分であるのだとすれば、こうしたグローバル企業の営業展開の不足をも指摘しなければならなくなってしまい、記事の主題と大きく離れてしまうことになるのである。

そもそも、日本のゼネコンの海外進出はすでに何十年の歴史を持っており、海外における売上げの割合は決して低くない。ゼネコンの組織のあり方が日本企業の典型であるのは、このブログでも何度も言及しているところであるが、だから海外では機能しないというのは単なるステレオタイプに過ぎないと考える。


すなわち、冒頭に挙げた記事において挙げられた「例」というのは、まったく現実的な知識や経験に基づいていない、ただのイメージなのである。そうしてみると、それ以下に語られる考察、結論といったものが、いったい何を根拠にしているのか、疑念を抱かざるを得ない。もちろん、個々の事象にまで目を配り、正確に捉えるのは大変な作業なのだということはわかる。しかし、その積み上げによってしか社会全体を眺めることはできないのだろうし、ましてや「よく使う例」とまでするには、しっかりとした取材が必要なのではないだろうか。

新国立競技場で問題となるのは、巨大さよりもむしろ左右対称性なのではないかと思う件

新国立競技場については世間でいろいろ言われてて、お金がどうのこうのみたいな話がクローズアップされている割には、世の中最初の案からお金の面で同意が得られている設計なんてそうそうないことを知っている身としては、まあお好きにどうぞ的な感があって、ほほえましく観察していたわけですが。

本日に至っては、コンペ当時の審査員である内藤廣さんが、今さら言わなくても言いことを言っちゃったりして、もし私が週刊誌の記者だったら大変喜ばしいことだというコメントをここで書いちゃうくらいの状況なわけですが、週刊誌の記者ではない私がかなり興味を持っちゃったのは以下の文章であるわけでございますです。

10+1 web site|都市景観と巨大建築|テンプラスワン・ウェブサイト

「古代のピラミッドやローマのコロセウム、あるいは中世の大聖堂」と、わざわざ例を引いて、「超高層ビルを見慣れたわれわれにとっても、今なお十分な強度をもつ」ものを挙げているのに、どうして「巨大さ」の方に目が行ってしまうのか不可解であり、むしろ五十嵐さんはとぼけているんではないかとすら思うレベルなのではありますが、敢えて見出しでも書いたことをもう一度繰り返すと、いやそれ、左右対称だろ、と。

左右対称の建築というのは、モニュメンタルを通り越してもはや宗教的ですらある、ということを、私が学生のときの設計製図の講評で聞いて、それ以来ツイッターなどで何度も受け売りをさせてもらって特に反論などないところを見て、一抹の真実性があると勝手に思っているところからすると、ザハの新国立競技場案で特に問題だと思うのは、その左右対称性なんだと思うわけですよ。実際、五十嵐さんは上で挙げた記事において、宗教建築を論じておられるので、新書を読んでないので断言はできないのですが、そこんとろ気づいてんでしょ?と。

宗教建築がなぜそんなに左右対称なのかというと(あ、別に実例あげんの省略しますね。左右対称でない宗教建築のほうが、例挙げるの難しそうな感じしますし)、人が造りしモノ以外の自然界において、左右対称なものというのは、おおかたにおいて「動物」なのであって、自分より大きな「動物」に出会ってしまったら死を覚悟しなければならなかった我々の原始の頃のご先祖様の記憶が金玉に記憶されて残ってるんだとか、科学的であるようなないような仮説が立てられそうな気がするんですけど、まあそれはどうでもいいことですよ。

新国立競技場よりも幅のある建築物は稀にはあるだろうし(これに猛反発してる槇先生の幕張メッセも、全長としては似たようなもん)、背の高いものは超高層という形でザラにあるなかで、巨大さで反発するのは、どうも論拠に乏しいなぁと思っていたところであります。

そこへきて、巨大さにプラスして、左右対称性がくるとどうなるか。この、ザハ案の新国立競技場は、左右対称であるが故に、その指し示す方向性というのが、嫌が上にも強調されて、その指し示す方向にいる人たち、とりわけ住んでいる人たちにとっては、大変にいたたまれない気持ちになるのではないかという予想をしてしまうのです。

東京という都市は、たとえば京都(も、正確には左右対称ではないですが)のように対称性が薄くて、なんとなく山の手線的な、内堀、外堀的な、円環の理的なところで落ち着いている都市であって、そういうところを、丹下健三大先生は、左右対称ではないけどモニュメンタルで求心的な、巴型に代々木体育館をまとめていて、まどか☆マギカ的に見ても大変な大正解であったのに対して、ザハ案に感じる違和感というのは、「左右対称だ」という一点に尽きてしまうのではないかという、そういう危惧をいだいているわけでございます。

これで、ザハ案の対称軸が、御所の方向をしっかり向いていたりすると、それはそれで大変に気持ちの悪いことではあるのでそんな提案は全く支持しませんが、全然関係ない方向を向いているのもまた気持ちが悪いわけであって、それはこれまで「軸」を持たせないことで「丸く」「円く」「環く」おさまっていた東京という都市に、おかしな方向性を持たせてしまうのではないかなあ、と、まあ今日も楽しくお酒を飲みながら思った次第でございますので、僭越ながらこちらに表明させていただいたところでございます。以上。

ただし書きがつくる、技術と法律の幸せな未来

今朝、このまとめを見てもやっとしたので、日ごろの不満をぶちまけつつ書いてみたいと思う。

佐々木俊尚さんのツイートまとめ/「法律原理主義」みたいなイデオロギーが蔓延するニッポン/警察庁と国交省が激怒!「トヨタが首都高で自動運転を実演」の是非について。 - Togetter

佐々木さんの当初の問題意識はすごく真っ当なのに、その後のやり取りの中で本質的なところからどんどん遠くなっちゃってて、なんだかなぁと。

法律が自動運転システムという新しい技術の発展を妨げているとしたら、その点において、それはダメな法律だ。佐々木さんの怒りもよくわかる。だけど、ダメな法律ならば破っていい、という風に取れる佐々木さんのツイートには、ちょっと同意できない。破っていい法律と、破っちゃいけない法律を、個人の判断にゆだねるのは危険だと思う。「悪法もまた法なり」という言葉には、それなりの説得力があると思う。

ただ、今はそこは置いておいて、もともとの問題意識に立ち戻り、悪法を良法に変える方法ついて考えたい。そもそも、警察庁や国土交通省が怒る原因となった法律だけど、今ざっと道路交通法を見たところ、たぶんこれ。違ってたら、ごめんなさい。

(安全運転の義務)
第七十条  車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない。

「ハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し」と書いてあるのだから、少なくともハンドルから手を離しちゃいけないし、ブレーキに足を置けないのもダメ。

自動運転システムなんてものができなければ、これはある程度妥当な法律だと言えると思う。これまで何十年も問題があまりなかったというところからも、それは確かだ。ハンドルを握ること、という具体的な判断基準が示されることで、ハンドル手放しで運転している人を安全運転義務違反で捕まえることができる。しかし、ひとたび自動運転システムという技術のイノベーションが成ったとなると、これは途端にダメな法律になる。それはなぜか。

条文のタイトルに、「安全運転の義務」とあるように、ハンドルを握らせることは、この条文の本来の目的ではない。ハンドルという、「安全(運転)」という目的を果たすための手段でしかないはずのものを、具体的に名指しして、目的化してしまっていることが、こと技術革新に当たっては、妨げとなってしまうのである。

しかし、目的だけの法律、たとえば「安全運転をしなければならない」というような条文が望ましいとは、とてもいえない。たとえば、鼻歌をうたっているだけで「運転に集中していない!安全運転義務違反だ!」と言い出すおまわりさんもいるかもしれず、気が気でない。

条文の具体性を保ちつつ、かつ想定外の技術の発展を妨げないような法律作りというのが、この国が世界に立ち遅れないようにするためには必要であるという佐々木さんの意見には、完全同意である。そして、それを実現するのは、そんなに難しいことではない。「ただし書き」をつければよいのだ。たとえば、こんな感じである。

車両等の運転者は、当該車両等のハンドル、ブレーキその他の装置を確実に操作し、かつ、道路、交通及び当該車両等の状況に応じ、他人に危害を及ぼさないような速度と方法で運転しなければならない。ただし、これと同等以上に安全を確保できると認められる方法による場合はこの限りではない。

実際、ぼくの仕事であるところの建築の施工に関係する法律にも、こんな感じの「ただし書き」が随所に見られるわけで、そのおかげで実現できている工法というのも、数多くあるのを知っている。ただ、それが意図的であるのかないのかわからないが、すべての法律にこういった「ただし書き」がついているわけではないのが現状であり、それによって、いろいろと実現できないことがありもどかしい思いをすることがある。

法律の意図するところを理解し、基準とするところを十分に超える性能を発揮する技術であれば、それを妨げることは誰の得にもならないことだ。そう考えると、すべての、技術に関係する法律には、この「ただし書き」がついていなければならないはずだ。

片っ端から「ただし書き」をつけていく作業は膨大な労力を要するだろうし、一見技術に関係するとは思えないような(上にあげた道交法の条文も、技術に関係すると、気づかない場合もあるだろう)ものが、技術に関係する可能性があり、かなりの知力を要する仕事でもあるのだと思う。

しかし、昔の常識で作られた法律によって、革新的な技術が葬り去られるほど空しいことはないわけであり、ひとつひとつ「ただし書き」をつけていくことが真の規制緩和になるのだと思うので、何とかしてくださいよろしくお願いします。

武雄市図書館に見るPPP/PFIのむずかしさ

タイトルにはこう書いてしまったものの、武雄市図書館と武雄市長にまつわるテキストはネット上に膨大にあふれていて、その全てに目を通しているわけではないし、今回書くことは基本的にぼくの頭の中でたぶんそうなんだろうな、と思っていることを文章にしただけの話であるので、誰かを非難しようとかいうものでないことは、最初に断っておく。

武雄市図書館のプロジェクトというのは、いわゆるハコモノ行政に対する批判、アンチテーゼとして企画されたものなんじゃないかと、ぼくは思っている。建設事業の経済果にばかり注目して、その成果物である建築物や土木構造物のうち、かなりの数のものが、あまり社会の役に立っていないではないかという批判。これは耳が痛い話だし、しかし耳を傾けなければいけないものだと思う。

これに対する施策はいろいろと提案されていて、その中のひとつがPFI(Private Finance Initiative)であり、それを含んでいるPPP(Public–private partnership)である。役人の頭だけに頼って、公共建築物をどのようなものにするか、どのように使っていくかを考えていくことには限界があり、ときに役に立たない成果物に至ることがある。だから、商売としてうまくやっている民間企業のノウハウや資金を有効活用していこうというものだ。

武雄市長は、このPPPの理念を、そのまま素直に受け取ったのだと思う。公共建築物として、学校を建てようと思ったら東進ハイスクールに、刑務所を建てようと思ったらALSOKに、図書館を建てようと思ったらTSUTAYAに、そのノウハウの提供を受ければ良いではないか、と。

だが、実態として、PFIを受注しているのはゼネコンばかり。ゼネコンは建設のノウハウはあるかもしれないが、教育のノウハウも、警備のノウハウも、本のレンタルのノウハウも、持ってはいないはずであり、PFIやPPPの理念とは食い違っているではないか。武雄市長でなくとも、そう思う人は多いはずであり、「大人の事情」だとか「陰謀」だとか言いだす人がいてもおかしくない。少し立ち止まって考えて見れば、単に、学校や刑務所や図書館を建てるというプロジェクトの中で、最も金額が大きく、リスクも大きいところが建設事業部分であるがゆえに、ゼネコン以外の民間企業にはそのコントロールが難しいだけの話だとわかりそうなものだが。

しかし、一度「陰謀」だとか「大人の事情」だとか、それを不可解ものとして捉えてしまえば、それを払拭するのはなかなか難しい。不可解な処置が差し挟まれる余地の無いよう、図書館はTSUTAYAにという直観(それは、あくまで市長個人の直観であるわけだが)に基づいたプロジェクトを強行することになった、というところではないだろうか。一般競争入札にしたら、TSUTAYAじゃなくて○○建設が、スタバじゃなくて○○商事が入ってきて、うまみを全部吸い取ってしまう!実際のところ武雄市図書館プロジェクトは、築10年ちょっとの既存図書館のリフォームという、建設事業部分のウェイトの極めて小さいものだったので、普通に入札をやっていてもゼネコンが名乗りを上げることもなかったと思うが、疑心暗鬼がゲオやドトールをはじめとするTSUTAYAやスタバの競合各社の参加を締め出してしまった、と想像を膨らませてみる。

  • 純粋で素朴であるがゆえに露見するPPPの危うさ

このように、武雄市長のPPP観は非常に素朴で、純粋なものだと想像される。

素朴で純粋な考えのもとに遂行されたプロジェクトだけに、PPPやPFIの、制度としての危うさが見て取れる。すなわち、役人の果たす役割が、複雑に過ぎるのではないかということだ。

役人は、PPPにおいてパートナーとなる民間企業を選定するまでは、「役人の知恵だけでもできるのではないか」という役所内部の批判を退けながら、できるだけ民間企業にそれを委託する部分が大きくなるよう奔走しなければならない。前述の通り、ハコモノ防止のためという理念的な目標のためだ。しかし、それが理念的であるがゆえに、心情として、民間企業に味方する側に寄ってくることも、仕方のないことだと言える。

しかし、ひとたび事業を委ねる民間企業が決まったとなれば、これまでの立場を一転させる必要がある。民間企業が、その通常業務として利益を追求したプロジェクトを推進してくるのに対し、これまた役人は役人の役割であるところの、市民の利益確保というところに主眼をおいた動きをしなければならない。

具体的な事例を、武雄市図書館で見て見よう。

改修された武雄市図書館には、二方向避難の取れていない、長い廊下がある。下の、館内ストリートビューに見える、吹き抜けに面した廊下がそれだ。

大きな地図で見る

書棚に向かって左側、つきあたりにはバリカーと呼ばれる仮設の衝立てのようなものがあるが、それを押し倒して向こうに進んでも、階段はない。つまり、退路において火災でも起きようものなら逃げ場はなく、手すりを乗り越えて1階に飛び降りる身体能力がなければ、救いの手を待つのみである。もちろん、これほどの書棚があれば火災の可能性がないはずはなく、また地震などがあれば書籍が崩れ落ちてくることもあるだろう。

これを禁じる法律はもちろんある。しかし、個別的で細かい部分での法律の解釈は、基本的に市長に任命された建築主事に任されているのが現状だ。建築というものはひとつとして同じ形がなく、言葉でできた法律がそれぞれのケースを細かく縛ることは非常に難しいからだ。だから、建築主事がバリカーを建てれば「室」の区切りだと判断すればそうであり(建築基準法施行令第120条)、こんなクリティカルな廊下であっても、ただの「重複区間」と判断すればそうなのである(同第121条)。

この建築主事が、普段からこういう判断をしているというのなら、例として出したのは不適当だと言わざるを得ない。しかし、もしこれが、プロジェクトを強力に推進し、かつ自らの任命権者であるている*1市長の意向を慮ったものであるとすれば、ことは市民の命にかかわることであるがゆえに、非常に問題である。すなわち、市長-建築主事というラインが、民間企業の味方から市民の味方へと立場を一転させるというどんでんがえしのタイミングを、完全に逸してしまっていると言えるだろう。

あまつさえ、市長は「建築基準法がおかしいのだ」などという旨の発言をしているようであり、いまだ転換を実現できていないようである。この辺りの情報は、以下のまとめに依っている。
武雄市図書館2階のポールパーティションと巨大書架のリスク - Togetter


冒頭で述べたことと裏腹に批判めいた文章になってしまっているが、これは単に市長の資質に帰すべき問題とも言い切れないと、私は考えている。果たして、ハコモノをなくそうと情熱をもってアウトソーシングを推進してきた同じ人間が、ある瞬間を境にして、市民の利益を最優先にものを考えることができるのだろうか(ここでいう利益とは、生命はもちろん、読書の権利を確保することなど、諸々である)。もちろん、そういうことのできるバランス感覚の取れた人間が市長なり、役人になることが望ましいのだが、そういった人材には限りがあると考えるのは、悲観的に過ぎるのだろうか。

建築のプロジェクトには非常に多くの人々が関わり、それぞれがそれぞれの利害をもっている。現場はたいていの場合、それを調整するだけで精一杯なのだが、ここで見たようなPPPに関係する特殊なケースでは、利害の方向性にバリエーションが少なく、それがゆえに同じ人が、フェーズごとに違う立場をとってことに臨まなければらならいという事態が生じてくる。

もともと、ハコモノは役人が、全てに市民のニーズを把握できているかのような振る舞いをしていたがために生まれたものであると、私は考えている。そうであれば、同じ役人が、プロジェクトの途中で役割を変えなければならないような仕組みというのは、また別の弊害を生みだす可能性があるのではないだろうか。

*1:武雄市には建築主事はいないそうです。お詫びして訂正します