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リスクを負わない部外者発言が公共建築に与える弊害とその対応について

 このところ、大規模な公共建築物の建設がスムーズに進まない事態が多く見られる。たてものを建てることでごはんを食べている者としては、そういうことはできるだけ起こらないほうがいいと思っているのだけれど、現実にそういうことが起こってしまうのはどうしてなのか、どうすればそういうことが起こらないようになるのか。答えにまではたどり着けた実感がないのだけれど、考えた過程を残しておこうと思う。

建物はどのようにして正しく建てられるのか

 この話をどこから始めてどこで終わらせるのかは非常に難しいのだけれど、とりあえず、一般に、民間発注の建物が正しく建てられるとはどういうことによって成立するのかを、まずは 考えてみたい。

 ここで言う「正しい」とは、場面によっては所定の要求品質を満たしているとか、法律に合致しているとか、当事者間の契約に即しているとかいろいろなものが考えられるのだけれど、そのひとつひとつを考えるのは別の機会にして、ここでは方向性を示す「正しい」という言葉に置き換えることにする。

 建物は、豊洲市場のような巨大なものでなくとも膨大な数の部品や部材と、その組み合わせによって成り立っている。単純に考えれば、建物が正しく建てられるためには、そのひとつひとつの部品や部材と、それらの組み合わせ全ての「正しさ」を確認する作業を繰り返すことが確実である。しかし、そのようなことは、小屋のような小さなものであれば可能であるかもしれないけれど、ある程度の規模の建築物ではかんたんに破綻してしまう。そこには膨大なコスト、社会的なリソースが必要となり、リソースは常に不足している。

 したがって、建築物の「正しさ」を生み出すために、このようなしらみつぶしの手段は通常採用されていない。「正しさ」を確認する行為を検査と呼ぶことにすると、現実に建物を建てる場面においては、重要な部材については全数検査しましょうとか、そうでないものについては、全てのものからいくつかを抜き取って行う抜き取り検査でいいやとか、そういう効率的な方法によって「正しさ」を付与しようとする。

 しかし、効率的という言葉は、立場を変えてみると手抜きにも見える。どこからが効率的で、どこまでが手抜きであるか、その線引きに普遍性や客観性を求めることはなかなかちょっと難しい。そこで、立場の、利害関係の異なる複数の者が集まり、話し合うことになる。効率的と手抜きの境界はどこか。重要な部材とそうでないものはどれとどれか。そのような議論の積み重ね結果として、どのように建てれば正しく建てられたと言えるのかを、集まったもの同士で決め、建物を正しく建てていくことになる。

 そこには、普遍性や客観性はないんだけど、集まった者それぞれには納得がある。

トランプゲーム「ダウト」のプレイヤーたち

 建物を建てるという行為には、発注者、設計者、監理者、施工者といった、利害が完全には一致しない多くの主体が関わっている。それぞれの主体は、建物を正しく建てたいという方向性については一致しているものの、その他の多くの点では利害(それは単純に金銭的な利益や損失もあるけれど、社会的な信用も含まれる)が異なるがゆえに、お互いの行動を監視し、間違っている場合にはそれを修正させようとする。

 しかし、指摘された間違いの検証と修正には、時間と労力、コストがかかる。また、その誤りの指摘自体が間違いであった場合、時や金銭、あるいは信用を失ってしまう可能性がある。そのような点において、建築物に関わる各主体、プレイヤーのあり方は、トランプゲームの「ダウト」に近い。「ダウト」のコールが間違いであれば、その報い、ペナルティは、コールを発した者に対して課せられる。「ダウト」が正しければ、コールされた側がペナルティを負う。

 ペナルティのあり方はいろいろあると思うけど、まず信用が下がり、その結果として他のプレーヤーからの「検査」の頻度が増すなどすれば、利益として見込んでいたものをすり減らすことなんかが考えられる。

 本来、誰も「ダウト」を発することなく、それぞれの職分を全うした結果として建物が完成することが一番よくて、プレーヤーたちの利益は最大化される。しかし、「ダウト」の必要がない仕事をするには高い能力が必要になり、高い能力を持つプレーヤーをゲームに揃えるには、発注者が各プレーヤーに多くの報酬を支払わなくてはならない。

 このようにして、集められたプレーヤーたちは、ときどき「ダウト」を発しながら、ペナルティを負いつつ、応分の利益を得て、建物を完成 させる。発注者は、用意した資金に応じた質の建物を得る。発注者を「親」とした、閉じたゲームである。

部外者による「ダウト」

 ここで、仮に、建物を建てるというこのゲーム中に、差し出すものも取られるものもない部外者が、「ダウト」を連発したらどうなるか。
  
 正規のプレイヤーの誰かにその「ダウト」の検証が求められるならば、「ダウト」が正しいかどうかに関わらず、そこにもペナルティと呼ぶべきコストがかかる。そして、誤った「ダウト」であっても、そのコールを発したものは、部外者であるがゆえにペナルティを負わない。

 「ダウト」のコールはたまたま正しいこともあるかもしれないけれど、正規のプレーヤーたちの信用は下がる一方で上がらないので、それぞれの正規プレーヤーの利益を足したもの、全体の総量は減るだろう。部外者は、ペナルティを負うリスクがないので、何の根拠もなくとも「ダウト」を連発することができてしまう。これにより、正規プレーヤーたちは少しずつ、だが確実に利益をすり減らされていく。

 このように、部外者の「ダウト」は正規プレーヤーたちにはうれしくないものである。ゲームの「親」である発注者が、部外者の根拠のない「ダウト」に厳しい態度を示さない場合には、発注者以外の正規プレーヤーからの信用を失ってしまう可能性がそれなりにあるということになるだろう。

公共建築の発注者のあり方

 ここまで見てきたのは、民間事業者が発注者である、一般的な建築プロジェクトについてである。しかしながら、こと、発注者が公共機関である公共建築については、上で見た構図がぼやけ、崩れる傾向にある。

 その理由のひとつには、公共機関の「公共」という言葉によって、発注者の輪郭がおぼろげになることが理由に挙げられる。たとえば、地方自治体が発注者である工事では、その地方自治体に住む市民は、自分たちも納税しているわけだから、正規のプレーヤーとして「ダウト」を発する権利があるのではないかと考えてしまう。これにより、正規プレーヤーと部外者の境界が曖昧になる

 もうひとつの理由としては、公共機関による、部外者に対する「厳しい態度」の示し方がはっきりしないところにあると思われる。上場企業である民間デベロッパーであれば、適時開示ですぐさま「当社が発表したものではございません」と出してくるような内容の「ダウト」であっても、公共機関が押し黙るケースが多く見られるのはあまり良い傾向とは言えない。

 公共建築において、発注者である公共機関が発注者としての信用を失わないためには、発注者と部外者の線引きをはっきりさせ、部外者の発言に対して毅然とした態度をとることか必要である、ということである。なお、発注者は、その他の正規プレーヤーとの契約内容を把握し、予算管理の責任を負っている人、というカテゴリーにに限らなければ、その役割を果たすには不足名のではないかと思う。

 発注者としての業務遂行に必要な手続きが定められていないのであれば、早急に整備する必要があると思う。また、公共機関が発注者の役割を果たせない、あるいは果たす気がないのであれば、さっさとPPPやPFIにより、その役割を民間に委託してしまうのが正解であろう。

部外者への対処

 ここまで見てきたように、正規プレーヤーではない部外者の「ダウト」は、一面で、公共建築の発注者である公共機関の信用を失わせている。公共機関の信用が下がれば、今後、必要な公共建築、公共工事は、突然白紙撤回されたり責任者が更迭されたり、さまざまなリスクを回避するために高いお金でしか引き受けてもらえなくなるだろう。公共工事がスムーズに進まなくなれば、経済全体の停滞にもつながりかねない。それにより困るのは誰か。

 根本的には、公共建築工事の発注者である組織のトップにしっかりしたガバナンスをお願いするしかないのだけれど、一方で問題であるのが面白半分に「ダウト」を連発する、自称建築の専門家であるところの部外者である。

 本来、建築の専門家と呼べる人たちは、アカデミックな世界に専ら活躍の場を見出してきた人を除けば、過去に正規プレーヤーを経験し、現在どこかの正規プレーヤーであり、将来正規プレーヤーとなる可能性のある人である。自らが部外者となって、「ダウト」を乱発することが良い結果をもたらすかどうかは、その都度、冷静に判断されるだろう。

 そのような建築の専門家であれば、どうしても看過できない「ダウト」は、正規プレイヤーの耳に届く声の大きさで発すれば十分だと考えるのではなかろうか。正規プレイヤーがその主張に耳を貸す必要がないと判断するのであれば、それまでである。それでも大声で、正規プレーヤーとは関係のない方向に「ダウト」を連発し続けるような人たちを、建築の専門家と呼ぶかどうかは、これを読んでいる皆さんに判断を委ねたい。

 悲しいのは、建築プロジェクトというゲームではないものの、視聴者やスポンサーなどとともに、信用や金銭のかかったゲームの正規プレイヤーとしてふるまっていると私個人が思っていたテレビ局が、部外者の明後日の方向に向かった「ダウト」の拡声器の役割を果たしてしまっていることであるが、それはここでいっても仕方のないことだろう。

 かつて、公共工事の発注者は、民間工事と違って企業の倒産による不払いリスクなどもない「いいお客さん」であり、そのおかげで私たちの社会は、比較的リーズナブルに必要な構造物を手に入れてきた。高度経済成長期に作られた多くの構造物が更新の時期を迎えるいま、公共工事の発注者のこれまでの立ち位置を面白半分に壊してしまうことが誰の得になるのか考えて欲しいな、なんて思いました。

シン・ゴジラ感想(ネタバレあり)

※この記事には映画「シン・ゴジラ」の内容に関する記述が含まれています。

シン・ゴジラ。封切り2日目に見て、そのあともう1回、都合2回鑑賞しました。すばらしかったですね。もうそろそろネタバレに対してうるさいことも言われないだろうし、以下の記事を読んだのをきっかけに自分も感じたことを書いておこうかなと思ったりしました。

business.nikkeibp.co.jp

 

コントロールされたリアリティ

最初に言っておくと、この映画におけるリアリティとは、追求されるものではなくコントロールされるものだったのだろうと、わたしは思っています。完全なるリアリティを追求してしまっては、ゴジラが出てくる隙すらもなくなってしまうので、当然ではありますが。ですから、リアリティが低い場面があるということが、映画自体の評価にはつながらないと思っています。

映画の中で、ゴジラは大きく分けて3回動きますが、1回ごとにリアリティのレベルは、観客に悟られないように徐々に下げようとしているように見えました。在来線爆弾の走る線路の上に瓦礫が落ちていないのはなぜだ、というようなことは何回か映画を見るうちに気になってくるわけですが、リアリティの低下は物語の進行上ゆっくりと進んでいくので、初回鑑賞時には全然気にならない。したがって、こうやって感想を書くにしても、映画終盤に近い場面のことであればあるほど、現実との違いをこと細かに指摘するようなことに意味がなくなっていくという構図です。

 とは言え、東京駅周辺の高層ビル群の構造体はCFT造であって、強度もさることながら熱容量にしてもNYワールドトレードセンターの比ではないのであるから、通常の爆弾程度では倒壊に至るようなダメージを与えられないのではないか、たとえ与えたとしても倒壊のタイミングと方向までコントロールするのは不可能ではないか。というようなことを議論することも大変楽しい。なんだかんだと言っても、リアリティについて語ってしまうわけです。

 

福島原発事故へのオマージュ

concretism.hatenablog.com

以前には上のようなエントリを書いたので、またかよといわれるかもしれませんが、また書かせてください。場面としては、上の日経BPの記事でも触れられている、対ゴジラ最終兵器であるところのコンクリートポンプ車が登場するところについて。

コンクリートポンプ車を使用すること自体は、福島第一原発で使われたことに対するオマージュでもあるのでしょうから、異議はありません。

福島第1原発では、当初ヘリコプターからの放水を行っていたと記憶しておりますが、途中からコンクリートポンプ車が使われました。瓦礫の転がる中を走らなければならないことや、ブーム展開のスピードを考えれば、はしご車のような消防自動車を組み合わせたほうが良いのでしょうが、建屋をかわして、真上から水を原子炉に送りたいという要請と、圧送量の問題からコンクリートポンプ車 が使われたのだと推察します。

 

消防車を使ったほうが良かったのではないか

ゴジラは、顔を横に向けて倒れるようにする作戦でしたから、今回こそは消防車を使って放水したほうがよかったようにも見えます。しかし、消防車が使われなかった理由は、血液凝固剤の性状にあったのではないかと思っています。化学のことはよくわからないのですが、劇中非常に複雑な解析作業を経て作った薬剤です。分子構造は複雑かつ膨大なものになったでしょうから、液体としてサラッとしたものにすることは不可能であり、かなりドロドロした、それこそコンクリートに近いようなものになってしまったのではないかと推察します。安田さんの提案があまりにもあっさりしてはいますが、放水して遠くまで飛ばせるような物性の液ではないとすれば、ブームを使って口の中まで運ばなければならないと考えたのはおかしくありません。

 

ゴジラと戦ったのはニッポンだったか

一方で、問題というわけではないのですが、わたしが気になる点は、コンクリートポンプ車を使うこと自体ではなく、使われた機種。さらに言えばその製造会社です。上の記事で明らかにされていますが、登場するコンクリートポンプ車のモデルは、プツマイスター製であり、プツマイスターはドイツの会社です。

 この映画のキャッチコピーは、「ニッポンVSゴジラ」なのに。

もちろん、一般の方々にプツマイスターがドイツの会社であることはそれほど知られた事実ではないでしょうから、制作陣からすれば日本製ということにしてしまえということだったのかもしれません。実際、ベースとなるトラックを製造した、誰もがドイツを想像するあの自動車メーカーのエンブレムを、わざわざ出渕裕デザインによるものによって覆い隠しているわけですから。

わたしが国産にこだわるのは、単に映画のコンセプトに反するからというだけではありません。福島第一原発のように、車両に何の改造も行わずにそのまま現場に投入する場面であれば、日常のメンテナンスを行える環境さえあれば、その車両が日本製であろうがドイツ製であろうが、気にする必要はないでしょう。しかし、映画に登場したコンクリートポンプ車のブーム展開のスピードは一般に使われているものとは違って非常に速い。単に道公法上の安全装置を取り外したという以上の改造がなされていることがわかります。このような改造を行うためには、部品供給の面でも、技術者確保の面でも、ドイツ製の機械を使うことにはデメリットが大きい。

さらには、先の東日本大震災では、いわゆる外資、日本国外に本社機能を置く企業の多くが、東日本から従業員を避難させました。映画のように、ゴジラが東京に出現し、かつ放射性物質を撒き散らしているとなれば、あのときと同じように外資系の企業は従業員避難を選択するでしょう。会社が従業員を守るというその姿勢は、正しい。非常に正しいと思います。

しかし、そのような過去を踏まえると、東京に核ミサイルが打ち込むことが既定路線となったあの場面で、その状況に立ち向かう人というのは非常に限られてくるわけで、誰が残って戦い、誰が避難したのかは、戦っているニッポンとは何なのかという点にも関わるわけですから、慎重に描いて欲しかったなあと思うわけです。

もし、取材に協力した人たちが、国産のポンプについて、プツマイスターよりはるかに劣ると言ったのであれば、それは非常に残念なことだと思います。確かに、カタログ上の数値はプツマイスターのほうが上だし、ブームも短いですが、最近は非常に性能と信頼性の高いポンプが開発されてきていると、わたしは思っています。例えば極東開発工業に、消防車製造のモリタの技術力を組み合わせるといった、日本の技術力の集大成で乗り越える描写があれば、もっと燃えられたのに!と思うのはわたしだけでしょうか。

 

おわりに

 本当は、常盤橋だけが建っている世界線についてとか、「日本はスクラップ・アンド・ビルドでのし上がってきた」という赤坂のセリフの意味とか、放射線半減期を激減させるゴジラ腐海との関係と映画で描かれたあとの世界にもたらす影響とか、いろいろ書きたかったのですが、ここまでで長くなりすぎたので、一旦筆を置きます。

ごきげんよう。

 

 

 

 

ポケモンGOを活用した社会インフラの点検作業の効率化について(提言)

はじめに

 日本の社会インフラは、戦後の経済成長を背景に着実に整備されてきたが、高度経済成長期に建設された橋梁の65%が2032年には建設後50年を経過するなど、老朽化や劣化による大きな事故や災害の発生が懸念されている。このような状況下において、既存ストックを今後も有効に活用していくためには、劣化や老朽化の兆候をできるだけ早い段階で発見する、点検作業の頻度と精度の向上が求められている。
 一方で、建設業においては、熊本・東北の復興事業や、東京オリンピックに向けた準備事業などによる建設需要の増加に加え、少子高齢化を背景とし、深刻な技術者不足が問題となっている。社会インフラの維持管理サイクルを円滑に進めていくためには、点検のみならず診断、対策の各段階に効率よく技術力を分配する必要があり、特に点検の中でも比較的簡易な目視程度の情報があればよい項目については、技術者の負担を減らし、かつ頻度については可能な限り増強していくことを求められているのが現状である。
 本論は、このような現状に対する現実的な解決方法のひとつを提案するものである。

具体的な解決策

 ポケモンGOは位置情報を利用したゲームであり、ポケモンの捕獲はカメラの映像を利用したAR(拡張現実)であることが既に知られている。すなわち、個人情報の部分提供に関してプレイヤーの同意が必要であるものの、位置情報と組み合わされた映像を大量に手に入れることができると考えられる。たとえば点検が必要な部位にポケモンを出現させ、その写真を撮るミッションを用意することで、プレイヤーに対して、目的の対象物を必要な角度から撮影するよう促すことができ、技術者は現地に赴く必要なく目的の写真が手に入る。
 GPSの精度等によっては目的の対象物が適切に撮影されていない画像が送られてくる可能性はあるが、大量の画像があれば近年目覚しく発達しつつある人工知能の技術により不要な画像を自動的に排除することは難しくないと考えられる。さらに、人工知能の技術を有効活用すれば、異常・変状を生じた対象物を写真から自動的に判別することも可能になると考えられる。

ボランティアを活用する方法との比較

 技術者の負担を減らし、高い頻度で点検を行う方法のひとつとして、対象物の近所に在住する特定のボランティアに点検を依頼する方法が考えられる。ボランティアを活用する方法は、作業者が明確であるため細かい指示が可能であるなどの利点がある一方、モチベーションや体調、あるいはそれが維持できない場合の後継者探しが不調となった際の継続性に不安がある。特に、モチベーションに関しては適正な対価を支払うのが望ましいが、ひっ迫する国家財源の中で、膨大な対象の点検に当たる点検者への謝礼の支出の困難さは増していくと考えられる。
 これに対し、本論で提案する方法は、数多くのプレイヤーがかわるがわる作業にあたることになり、個人の作業の継続性を問題にしないほか、金銭による対価を支払わずとも、ゲーム内でのメリットを享受させることにより、モチベーションの創出が可能である。たとえば、ある点検対象の写真が長期間にわたって撮影されていない場合に、その点検対象付近にレア度の高いポケモンを出現させるなどの手法により、プレイヤーの行動を的確にコントロール可能であると考える。

モニタリングシステムとの比較

 現状、目的を同じくする取り組みとして、さまざまなモニタリングシステムの開発が検討されているが、たとえば定置式のカメラのような精密機器を、塩害や凍害のおそれのある過酷な環境下に長期間にわたって設置し続けることは故障の多発につながり、装置の耐久性が求められ、時として技術者が現地で写真撮影するよりも大きな経済的、労力的負担になる場合も考えられる。これに対し、本論が提案する方法は、スマホカメラという高性能かつ精密な機器を使用するにもかかわらず、苛酷な環境に置かれる時間は非常に短く、また民間個人の資産と活動力を利用するものであるため財政的な支出も大幅に抑えることが可能である。国内に存する個人所有のスマホカメラの数は膨大であり、これを活用して全国に同じく膨大に散在する社会インフラの点検に当たる方法は、きわめて合理的であると考える。

予測されるデメリット

 点検が必要とされる社会インフラは、その設置環境等によっては撮影作業に大きな危険が伴う場合が予想される。初期作業として点検対象物のまわりの安全性を十分に確認する必要がある上に、プレイヤーが危険な行為に及ばないよう十分な警告を行う必要がある。また、ポケモンGOのゲーム自体の将来的な人気の降下は本案のリスクであると捉えられる。
 また打診点検など特別な技能が必要な点検や、AEのように特殊な機器が必要な点検については適用できない。本案によって軽減された技術者の能力をこういった点検に集中させることが望ましい

終わりに

ポケモンGO潜在的に有する社会的資本への貢献の可能性について述べてきた。本論が提案する方法は民間の個人が所有するスマホのカメラの性能向上を背景に、その利活用を最大限に促すものであり、国庫の財源に限りがある中でPPP/PFIと同じく民間活力の公益的目的への活用として位置づけられるものと考える。この提案が国土強靱化に資することを期待する。

マスコミの皆さんへ

建築物の欠陥が疑われる場合、最初に取材すべき相手は「工事監理者」と呼ばれる人です。工事監理とは、建築士法で「その者の責任において、工事を設計図書と照合し、それが設計図書のとおりに実施されているかいないかを確認すること」だと定められています。

工事監理者のところに取材に行き、設計図の通りに施工されているのに不具合が起こったと言うのなら、それは設計瑕疵です。設計者のところに取材に行きましょう。

設計図の通りに施工されていないのであれば、まず、目の前にいる工事監理者が職責を果たしていたのかを確認しなければなりません。

皆さんが、いつも真っ先に取材しようとする施工者(ゼネコン)のところにいくのは、設計に瑕疵がなく、かつ工事監理者がその職責をきちんと果たしていたことを確認してからでも遅くありません。

当事者の会社から発表されるままに取材しているのでは、マスコミの存在価値はありません。

設計者、工事監理者、施工者のうち、複数の役割を同じ会社が担っている場合がありますが、その場合でも、設計者としての責任があるのか、工事監理者としての責任があるのか、施工者としての責任があるのかを、きちんと区別するのが正確な報道だと思います。

次からは気をつけてください。私からは以上です。

新国立競技場をめぐる巷の意見に対する当ブログ主の所感

さっき、twitterに連投したのが読みにくいので、ほったらかしにしつつもまだ残っていたこのブログに一応まとめておく。筆者は建築を専門にしているが、設計者ではなく施工者であり、これはその立場からの意見であることをことわっておく。

建築の設計コンペには、大きく二つの方向性がある。ひとつは、はじめからコストまで厳密に検討された、実現可能性が高い案を求めるもの。もうひとつは、大きく目指すべきもの、コンセプトを求め、厳密な検討は長いプロジェクトの期間につめていくもの。多くのコンペで求め、求められるのは、その中間のどこかになるわけだが、どこにおくかは、発注者の意向を汲んだ上で、応募側、募集側の建築家どうしでの読みあいとなる。

今回の国立競技場のコンペでは、想定される竣工期日の7年前という時期、発注者の「国」という経済規模などなどを考えれば、募集側の建築家、応募側の建築家とも、後者(コンセプト側)に寄ったものと解釈するのは当然といえ、3年もの月日を浪費した現在においてその判断を責めるのは酷である。

さらにいえば、コンペの実施から現在まで、民主党から自民党への政権交代とそれに伴うアベノミクスの実施、日銀による大規模な金融緩和、東京オリンピックの開催決定など大きな経済イベントが続けざまに、かつ国立競技場の発注者である「国」の主導のもと起こっている。これにより、当時と現在における単純な比較が難しくなっており、特に一般的な指標である、「日本円」による比較は不可能といってよいレベルである。たとえば主軸通貨である米ドルを基準にしても、コンペ開催当時1ドル=78円程度に対して現在1ドル=122円であることには留意する必要がある。

www.murc-kawasesouba.jp

加えて、建設業界においては好調な不動産市場を背景に、資材、労務の不足・高騰が引き起こされつつあった。現状は元請(ゼネコン)側の選別受注により暴騰を回避しつつあるが、このような強含みの市況においては、早期の工事契約が建設費抑制に有効であるにもかかわらず、国は特に民間に発注者支援業務を要請することもなく、施工者が参加しない詳細設計業務を先行させたり、技術提案のみで施工業者を決めた上での随意契約へ持っていこうとするなど、建設費抑制に対する適切な対応が取れていない。これらについて、当然ながらコンペ当時の関係者に責任はない。

ザハ、安藤忠雄の両者をはじめとする当時のコンペ関係者は、閉塞感が漂っていた当時の日本、特に「コンクリートから人へ」を掲げた民主党政権下における建設・建築の関係者の鬱屈した気分を晴らすというその責を十分に果たしており、ここまで述べてきた論理的な部分のみならず、感情的にも彼らを咎めるようなことは、この世界でメシを食ってる人間として、できようはずもない。

巨大な二本のアーチは、観客席を雨から守るという機能的な役割だけでなく、これまで実現したことのない技術的なチャレンジ課題として適切なレベルにある。東京スカイツリーも同様な課題であったが、不況下における余剰リソースをもって当たることができた当時と違い、旺盛な民間需要を断ってまでのチャレンジということで、機会損失、リスクヘッジといった費用が上積みされたのは、先述のとおり選別受注を旨としている施工者として当然である。コンペ当時の1300億円という金額が、大まかに東京スカイツリー3本分、というとろこであると見積もると、私の感覚として(前述の通り、感覚でしか比較のしようがない)2520億という金額はそこから大きく離れてはいない。

建築をめぐるしごとは、理想を追い求めること、実現性を追うこと、その妥協点をさぐること、さまざまな要素から成り立っており、それぞれに非常に価値のある、やりがいのあるしごとだと私は思っている。

どんなプロジェクトでも、実現可能性からの距離は別として理想を語るところから始まり、徐々に実現可能なものへと変貌していき、建築物として実現する。その過程全体が建築であり、一部を取り出して特別視することにはくみしない。

ザハは非常に優れた理想の語り手である。アンビルドの女王なる呼び名は彼女にとって非常に不名誉なものであるが、その不名誉は彼女だけでなく、彼女のプロジェクトに関わった発注者、施工者、コンサルタント、PM、CM全てが等しくかぶるべきものであろう。

今回の国立競技場については、JSCならびに文部科学省不作為によるところが大きいと考えるが、彼らの不手際を横目に見ながら適切な指導ができなかった財務省国土交通省などの縦割り意識、ひいてはいまだにこれを改善できないでいる我々日本国民の不手際ということなんだろうさ。

改修案は検討された末に捨てられたんだろうたぶん

さてさて、伊東豊雄さんが国立競技場の建替えに異を唱えて、改修案を自ら作成したことが、一部で話題になっています。

伊東豊雄氏の代替案「国立競技場は、新しく建て替えないで維持改修しよう」 : ギズモード・ジャパン
建築家の伊東豊雄さん、国立競技場の改修案発表:朝日新聞デジタル

伊東さんの案はよく見ておりませんが、国立競技場を建替えではなく改修して供用年数を延ばそうという考え方自体は、当然検討に値するものであって、現にその検討が行われたことを示す資料をインターネット上で見ることができます。

久米設計が2011年に制作していた国立競技場の改修案とその費用についての資料 | architecturephoto.net | ひと月の訪問者数21万の建築・デザイン・アートの新しいメディア。アーキテクチャーフォト・ネット

リンク先PDFをざっと読むと、なるほど潮を見る方面の某設計事務所では、既存の構造体の評価を行い、それが軽微の補修によって有効に活用できることを確認した上で、いくつかの方針のもとに改修を行う案を立てているのだな、と見ることができます。

ところが、ところがですよ。よくよく読んでみると、この改修案にはおかしな点があることに気づきます。

「1章 現況調査」9ページ左上、個別所見として、「中性化深さ測定の結果、既存部の平均値はコンクリート打放し+吹付けタイル仕上げ箇所0~74.2mm」「コンクリート打放し箇所で2.9~65.6mm」「岸谷式から導き出される中性化深さの推定値(26.9mm:既存部、25.6mm:増築部)と比較すると、(中略)中性化の進行は早い傾向でした」というような記載が見られます。

鉄筋コンクリートは、その名の通り鉄筋とコンクリートから成り、主に鉄筋が引っ張る力に、コンクリート圧縮する力に抵抗しており、これらが一体となることで相互補完的に強靭な構造体を形成します。鉄筋は水、酸素、空気がある環境では腐食してしまうのですが、コンクリート、特にセメントのアルカリ性によって腐食から守られており、この点でも相互補完が成立しています。中性化は、大気中の二酸化炭素などが水に溶解し、酸性によりコンクリートアルカリ性が失われる現象で、これが進んで鉄筋を包むコンクリートが中性化してしまうと、当然ながら鉄筋は腐食する可能性があり、表面に浮いた錆びによりコンクリートと鉄筋は一体性を失って、ひどい場合だと表面のコンクリートが剥落します。

5ページの左側写真-04、右側写真-05では、コンクリートをはつり(削り)取ったところにフェノールフタレイン溶液を吹きかけ、アルカリ性を保持している部分(赤紫色を呈します。中学校で習ったよね?)を確認していますが、鉄筋の奥まで白い=中性化しているように見え、これが74mmの箇所を示しているのかはわかりませんが、極めて中性化が深刻な部位が存在すると言えるのではないかと思います。

国立競技場には高炉セメントが使用されたことがわかっていますが、いくら高炉セメントとはいえ、たかだか50年で74mmという中性化深さは大きすぎると感じます。強度については問題がなかったと記載されていますが、適切な施工であったか、加水などされてなかったかなど、疑念は生じてきます。このままだと、鉄筋はすぐにも腐食の度合いを深めていくと考えられますので、構造体の評価としては、一般的に極めて低いものとならざるを得ません。なお、中性化したコンクリートを再アルカリ化するような工事は非常に困難(=金がかかるってことですよ)で、ダムのように気軽にぶっ壊すことのできない構造物でこそ検討に値しますが、建築物でそれを行うことは非現実的であり、鉄筋位置まで中性化してる=オシマイと見るのが一般的な見方です。

既存構造体を再利用しようと思ったら、抜き取り調査(多数の中からいくつかピックアップして調査)の結果はオールグリーンであることが求められるのが通常です。中に不合格サンプルが混じっていたとしたら、それをもってしてもロット全体で合格とみなすことができるという合理的な理由を述べる必要があると考えますが、そのような記載は検討書の中にはありません。

ところが、8ページ左上、総合所見には、「いずれも経年の劣化と考えられ、部分修繕処置で対応可能と判断いたします」という見解が堂々と記載されており、論理のウルトラスーパーミラクル大飛躍が見られるわけで、おやおやこの検討書はなんだんだろうという心持ちにならざるを得ないところであるわけです。


さて、この検討書が正式に公表することを目的として作成されたものであるならば、この所見について「改修ありきの検討ではないか」といった批判をすることもできましょうが、これはそういうものではないと、私は予想します。

神宮外苑と国立競技場を未来に手わたす会

私がこの検討書を発見したのは、上のサイトです。これを運営している人たちが、どこでこの検討書を手に入れたのかはわかりませんが、結論として建替えることが決定されている以上、改修案というものは「ゴミ箱から拾ってきた」という位置づけであると考えてよいと思います。

このような検討書の作成を依頼されたとしたら、普通は改修設計案の作成と、既存構造体の調査を同時に進めると思いますが、いくら改修設計が順調に進んでいたとしても、既存構造体の調査で芳しい結果が得られなければ、そこでゴミ箱行きは決定です。もちろん、結果がどうあれ検討書の作成に対する報酬はもらわなければならず、その対価としてなんらかの書類を提出する必要があったとすれば・・・まあ、こういう書類になるんじゃないかなあ、と。その辺、このブログの運営者にはひどい妄想癖があることは、過去記事を見ていただければわかるとおりですので、まあ話半分に。

いずれにしても、改修というのは既存部分の劣化した部分を撤去し、健全な部分を活用しつつ、全体として要求性能を満たす構造物を完成させる仕事となります。劣化した部分と健全な部分をしっかりと分別し、評価してこそ、改修案を設計できるという、新築よりもむしろ高い技術力と技術者倫理が求められる仕事だと、私は考えております。資材やエネルギー、環境負荷については、大いにこれを削減できるものと思いますが、お金や時間、人的資源までもが節約できるかというと、ケースバイケースで、むしろ節約にならない場合というのも多くあるのではないかと思います。

国立競技場の場合は、お金と時間の面でかなり厳しい条件が課せられていると聞いておりますが、そうした状況下においては、ゴミ箱の中を漁っている暇はないのではないのかな、というのが、私の感想です。

【新築×分譲】優位の市場が住居の貧困をもたらす

これを読みましたですよ。

痛いニュース(ノ∀`) : 【画像】 「世帯年収355万円 私たちマンション買っちゃいました!」←の広告が酷すぎると話題に - ライブドアブログ
年収が低い人がマンションを買ってはいけない、たった1つの理由(えふしん) - 個人 - Yahoo!ニュース

年収が低いのにマンションを買うなんてバカだなぁ、というコメントばかりですが、この話で注目すべきはそこではなく、プレサンス・コーポレーションはどうやって儲けるつもりなのか、というところだと私は思います。

そもそも、年収の低い人はお金を貸してもらえないので、普通は住宅が買えません。なんでお金が貸してもらえないかというと、お金を返せなくなる可能性が高いからですよね。ところが、プレサンス(とその提携銀行)はお金を貸してやろうという。なぜか。それはプレサンスの立場から見るとわかりやすいのでは、と。

まず、住宅市場をざっくり分けると、新築と中古、分譲と賃貸の2×2、4つのカテゴリになるんではないかと思います。そして、【新築×分譲】の相場だけが、他の三つ【新築×賃貸】【中古×分譲】【中古×賃貸】と比べて異様に高い。なぜ高いかは置いといて、とにかく高い。

次に、プレサンスというのは、たしか賃貸マンションの経営で伸びてきた会社だと思います。そのノウハウがどこにあるのかわかりませんが、とにかく彼らは賃貸経営がしたい。

賃貸経営をしたければ、普通は中古市場で物件を漁ることになるのですが、これだと自分たちが市場に送り出したい規模、戸数、価格帯の物件を調達するのは難しい。あちこちから空き物件をかき集めたのでは、たとえば、場所が離れているので管理人をたくさん雇わなくてはならないとか、水まわりの仕様がばらばらなので、修繕部品の大量調達や修繕マニュアルの簡素化が難しいとか、おそらく相当の弊害があり、彼ら独自の賃貸経営ノウハウがあまり活かされないのだと想像します。

そうなると、自分たちの望むマンションをいっそ新築してしまったほうが良いという考えに至る。しかし、せっかく新築したマンションを【新築×賃貸】の市場に送り込むのは、損です。なぜなら、上で述べたとおり、【新築×分譲】のほうが、高値で売れるからです。しかし、いちど分譲市場に出てしまった物件は、当然人が住むでしょうから、十数年、数十年たたないと中古市場に戻ってこない。まあ、仕方のない話です。

そこでプレサンスが考えたのが、冒頭のチラシ。普通は十数年、数十年たたないと戻ってこないものを、ものの数年、へたすると2,3年で戻ってくるようにするために思いついたのが、敢えて返済の滞りそうな人に売る、ということではなかったかと。ちょっとでも返済が滞りそうになったら、【中古×分譲】の価格で買い戻しましょうか?と声がかかる。普通は、貸したお金はお金で返ってこないと困るのですが、プレサンスはお金ではなくてマンションで返ってきても問題ない、という立場なので、年収の低い人にもお金を貸せるということなのでしょう。

これにより、普通に賃貸マンションを新築するよりも安い価格で、築浅で、規模、価格帯のコントロールされた物件をまとまった数、調達できる。もちろん、滞りなく返済する住人もいくらかはいるかもしれませんが、それはそれ、物件を取り戻して賃貸経営利益を得る機会は逸しますが損はしません。返済が滞りそうな住人の兆候を見逃し、物件を取り上げるタイミングが遅れてしまうというような事態にさえならなければ、なかなか優れたビジネスモデルだと言えるでしょう。返済が滞りそうな住人を見分けるノウハウを、いったいどこから仕入れてきているのかとかは、あんまり想像しないほうが良いのかもしれません。


さて、こんなおかしなビジネスモデルをわざわざ作らなければならないのは、上述のとおり【新築×分譲】の相場が異様に高いという背景があるからです。ひとつには、そんな高い価格で新築分譲住宅を買う人がいることが悪いのだ、ということもありますが、一方には政策面の問題もあると思います。かつて住宅数が足りなかった時代には、税の控除、補助金、融資面の優遇など、さまざまな手段によって新築に有利な条件をつくりだすことにより、個人の資力によって住宅供給数を確保するという政策にも正当性があったかもしれません。しかし、都市郊外などで空き家が社会問題にもなる昨今、そんな時代ではないことは明らかです。

それどころか、【新築×分譲】市場ばかりを優遇することで生じる市場の歪みが、上で見たように優良な新築住宅が賃貸市場に出てくることを妨げている側面もあります。【新築×分譲】市場が【新築×賃貸】と連続的な相場をつくりあげていれば、プレサンスも上で見たような不自然なビジネスモデルを構築する必要もなく、素直に新築賃貸マンションの開発を進められるのだと思います。【新築×賃貸】の空洞化によって、賃貸市場のニーズに合わせた物件が供給されないという傾向は、違法シェアハウスなど、住居の貧困につながっている部分もあり、何らかの対策が必要だと思います。